【報告】西谷修「理性の探求」
2009年12月8日、西谷修氏(東京外国語大学教授)を迎えて、UTCPセミナー「理性の探求」が行われた。
「理性」ということで何が考えられるか。なぜ「理性の探求」なのか、「理性の探求」はどうして必要であり、如何にして求めうるのか。如何なる理性を求めるのか。これらの問いをわれわれは問われている。講演の約一ヶ月前、西谷氏の著書『理性の探求』(岩波書店、2009年)が刊行され、そこでは、今までの理性と違うタイプの新しい理性が求められている。
世界史、経済思想、そして医療思想史など多岐にわたる領域を対象に研究をなさってきた西谷氏は、9・11の衝撃をきっかけに、政治的・社会的発言をだんだんと多くおこなうようになってきた。西谷氏によれば、実は、一見すると、自分の研究領域はばらばらに見えるが、じつはその根底に通底するものがある、それは、一人の生きている人間が何を考えるかということだ、と。2001年9月以後、いわゆる「理性」が生み出した世界に狂気の様相を露呈していた。それは少なくとも基本的に三つの狂気を認めることができる。
第一は「テロとの戦争」だ。9・11事件を受け、「テロとの戦争」という名のもとに、アメリカはアフガニスタンそしてイラクに侵攻し、戦争に踏み切った。タリバーン政権とフセイン政権を崩壊させたが、その後現在までもアフガンとイラクの国内での武力紛争状態は継続している。多数の民間人の命が失われており、また戦争から逃れるために多くの難民が発生した。治安が急速に悪化し、自爆テロも増え、「最悪」を更新し続ける。しかも、開戦の正当性の根拠として持ち出された例えば大量破壊兵器などが誤情報だったと判明したため、開戦の正当性が根底から揺らぐ結果となっている。
「テロとの戦争」は単なる権力の問題だけではなく、資源の問題でもある。それこそが、人類の陥っている第二の狂気である「市場」経済システムと直接結びついている。この経済システムを守るために、あらゆる国の軍隊を動員して、国を超えた軍事体制、安全保障体制が必要とされる。それは確かに「テロとの戦争」だ。だが、市場に委ねればすべてが適正に決定され、無駄なものは淘汰され、自由な創意や意欲が生かされるといったレトリックは、逆にすべてを市場に拘束し、他のあらゆる可能性を押しつぶす圧延装置として働いている。いまの「経済」は結局、人々を豊かにするどころか、貧富の差を拡大化し、弱肉強食の世界を加速度的に進めてきたのであり、いたるところで地域的な生活基盤や社会の崩壊を引き起こし、それが多くの人間の生をも破綻させるに至っている。「経済」なるものの成立のために他のすべてに目を瞑る自閉的盲目のもたらす不幸と悲惨である。
第三の「狂気」とは、科学技術のことである。科学技術は人間の理性の精華ともみなされている。21世紀になると、生命科学の時代が到来したとよく言われる。遺伝子の発現は生命科学の画期的進歩として注目を浴びる。遺伝子の調査さえすれば、病因を特定でき、何でも直ることができるということが信じられている。ところが、この考えのパターンは、ヘーゲル哲学を考えてみると、遺伝子はすなわち第一原因となるのではないかと思わざるを得なくなる。それのみならず、実は科学技術でさえその「進歩」の方向を決めるのは経済的・政治的要因である。生命科学という分野の開拓が、最後に残された資源領域として無限の「ビジネス・チャンス」をもたらすと期待されており、他方、技術の開発は国家利益の確保とは切っても切り離せないことである。
しかし、本当にその研究は人間にとって必要であるかという問題は誰も提起しない。西谷氏はこうした多元的に現れる現代の「狂気」の諸様相から、ありうべき思考の「理性=根拠」をたどる。いうまでもなく、ここでいう「理性」は近代哲学の原理であったそれではなく、西谷氏によれば、むしろフランス法制史家ピエール・ルジャンドルが再解釈した「理性」である。それは人間の「根拠」に関わるものではあるが、抽象的な能力ではなく、「なぜ」という根源的な問いに答える作用である。「なぜ」を問うことは人を、「われわれ」の秩序に回収できないものを徹底的に排除するモノローグから離れて、「われわれ」の秩序そのものを疑う立場に立たせる。これによって「理性」を捉え直し、それに骨肉を与えることが課題として私たちに迫ってきている、と西谷氏は締めくくった。
(文責:喬志航)