メロン・ベンヴェニスティ氏来日講演、進行中/後半に向けて
イスラエルから、著名なインデペンデントの政治学者メロン・ベンヴェニスティ氏が、UTCPの招聘で来日。まず前半2回の講演を盛況のうちに終え、後半、15・16日の講演と対談が楽しみになってきました。
まず12日は、明治大学とUTCPとの共催シンポジウム「都市とユダヤ性」のなかで、ベンヴェニスティさんは、エルサレムについて講演しました。
そもそも都市「エルサレム」とは何か。「地上のエルサレム」と「天上のエルサレム」。そこに人が生き、政治経済を行なう場所として、物理的な範囲を規定されるエルサレムと、三つの宗教において重要な意味をもち、宗教的構想力のなかでかたちづくられるエルサレム。紛争のなかでエルサレムは、この二重性を帯びている、とベンヴェニスティ氏は言います。
実際、地理的な範囲を考えるだけで、「エルサレム」が不定のものであることがよくわかります。
1km四方の壁で囲われた旧市街。もちろんその旧市街でさえ、第一神殿時代から陥落を繰り返しながら現在の大きさに拡大してきました。
他方、行政区としてのエルサレムは、1967年にイスラエルが東エルサレムをヨルダンから奪取し占領してからは、イスラエルが「ユダヤ人の最大化」という目的にしたがって、その範囲を恣意的に拡張させてきました。すなわち、東エルサレムの郊外にユダヤ人の入植地を建設し、その地区をエルサレム行政区として拡張する一方、その近隣のアラブ・パレスチナ人の村についてはエルサレム行政区には含めない。そうなると、エルサレムの東側は触手を伸ばすように歪(いびつ)なかたちになっています。そのことによってイスラエルは、エルサレム全体の人口比率において、ユダヤ人3分の2、アラブ人3分の1というのを何とか保っているのです。実際のところそうやって不自然に排除されたアラブ人の都市部地域を含めれば人口比は半々になります。
揶揄を込めて言えば、「聖地」エルサレムが拡張されると、それまではただの荒涼とした丘の石ころでさえも、突然に「聖なる石」に化けてしまう、と。そうして「エルサレム」は生成変化してきました。
ベンヴェニスティ氏の立場から言えば、「ユダヤ人とアラブ人が争っている」という構図自体が政治的につくり出されたものです。イスラエル建国以前に、すなわち分断以前にエルサレムに生まれたベヴェニスティ氏にとっては、アラブ人は同じ土地を共有し、この地の文化圏をともにつくってきた隣人です。土地を切り分け、壁で分断し、民族同士が接することのないようにというような「解決」はありえない、ということになります。
* * *
13日は、ミーダーン〈パレスチナ・対話のための広場〉とUTCPの共催による市民講演があり、ベンヴェニスティ氏は、パレスチナの土地の「ユダヤ化」について語りました。
まずベンヴェニスティ氏は、イスラエルによるヨルダン川西岸地区の占領や入植が政治的に話題となっているが、それ以前のイスラエル国家建国そのものが、そのイスラエル領となってしまったパレスチナの土地の「ユダヤ化」であり、それが忘却されている、ということに強く注意を喚起しました。
ベンヴェニスティ氏の父は、地理学者・地図製作者として、建国時に地図の書き換え作業を行なった張本人でした。アラブの地名を抹消し、聖書由来のヘブライ語地名をつけて、あたかも歴史的に永遠にユダヤ人の土地でありつづけたかのような仮象を生み出しました。それを「自然化」してしまっているがゆえに、紛争は西岸地区とガザ地区にしかないかのように見られてしまうわけです。
同時にベンヴェニスティ氏は、「占領」とか「アパルトヘイト」といった批判のための言葉の政治にも警告を発しました。まず「占領」というのは、戦争などで一時的に被占領地をもっているという状態を指すが、歴史的パレスチナの地/エレツ・イスラエルにおいては、ユダヤ人とアラブ人とをそのような意味で、占領者/被占領者というふうに単純に二分することはできません。また、「アパルトヘイトだ」という非難も、問題を単純化してしまうため、効果的とは言えません。アパルトヘイトではないという証拠もいくつでも挙げられるし、逆に南アのアパルトヘイトよりもはるかにひどい側面も存在します。
これらの問題に対する「解決」は安易に語ることはできません。また「解決」を容易に語るのは政治家のすることだが、自分は政治家ではないとベンヴェニスティ氏は言います。そうした性急な解決は「分析」をないがしろにします。にもかかわらず、重要な発言者としてベンヴェニスティ氏にはつねに「何が解決なのか」と意見を迫られます。
あえてそれを語れと迫られるなら、どうしても「バイナショナル・レジーム」について議論をせざるをえなくなると言います。二民族が一つの土地で共存できる枠組み。
それについては、おそらく15日の講演で主題化して、さらに踏み込んで論じられることになるでしょう。
* * *
15日、16日と、また別のテーマで講演と対談が続きます。ご参加ください。
→「パレスチナの〈破壊の歴史〉と〈共生の未来〉を語る」