「世俗化・宗教・国家」セッション17
2010年1月18日、「共生のための国際哲学特別研究Ⅲ」第17回セミナーが行われた。
今回は、21日にシンガポール国立大学で行われる院生合同ワークショップ「世俗化・宗教・国家」に向けて、UTCPからのRA・PD研究員7名の参加者のうち、阿部尚史(UTCP特任研究員)と内藤まりこ(UTCP特任研究員)による報告が行なわれた。
阿部の発表「誰が彼の権利を認めるのか?:19世紀後半イランにおける法制度“近代化”の序曲;ペルシャ語法廷文書の分析から」においては、19世紀のイランを例に、近代化プロセスにおける国家と宗教との関係性の変化が取り上げられた。阿部はまず、前近代において宗教が信仰、信仰実践、道徳、法律、政治全てを横断する領域に関わっていたのに対し、近代において初めて政教分離が起こったと論じ、これを特に、法的な実践が宗教と分離され、国家がその独占的な管理主体となってゆく過程と捉える。
19世紀、カージャール朝のイランにおいて、当時イランを軍事的に圧迫していたロシアとの商業条約(1843年)に基づき、外国人商人とイラン人商人の係争を扱う商業法廷が設立された。商業法廷はイラン政府の機関であり、法廷文書の印章には、王朝の紋章であるライオンと太陽が使われた。イラン国家に帰属する法廷という形式は、ウラマー(イスラーム法学者)の裁定に基づく、国家から独立したシャリーア法廷という、それまでの伝統的な司法のあり方と大きく異なるものだった。商業法廷は、民事事件の分野をウラマーと宗教から引き離し、国家の管理下に置いた点で、イランにおける法律の世俗化の最初の段階であった。
質疑においては、発表者が世俗化過程を近代法廷、民法典などの法制度の「西洋化」であると捉えたのに対し、西洋化と近代化を同列のものと見るべきなのか、といった問題に議論が及んだ。
内藤の発表「宗教/世俗二項対立の再考:近代日本における宗教の出現」では、日本社会の世俗化と近代化を、同時代の知識人たちがどのように捉えたかが検討された。題材として取り上げられたのは、夏目漱石の小説『心』(1914年)とラフカディオ・ハーンの論説『心―日本の内面生活の暗示と影響』(1896年)である。
夏目漱石は、『心』の登場人物の内奥の悩みを通じて、宗教と世俗が鋭く対立する当時の日本社会を描き出す。漱石における宗教/世俗対立は、日本における国民国家形成と資本主義の導入が引き起こした、個人と国家、心と身体、内面世界と外面世界、遊民(非生産者)と生産的労働、という一般的な二項対立の、一つのバリエーションとして現れる。
これに対し、西洋人の観察者として日本社会を論じるハーンが着目するのは、別の要素である。彼が論じるのは、歴史を通じて日本の人々のアイデンティティの基底となっている「東洋的な心」である。ハーンは、祖先崇拝や前世の概念など、土着信仰的な要素も含む「東洋的な心」を、「西洋的な心」とは根本的に違うものとして発見する。迷信や土着信仰の類が、西洋世界にも存在することに気づいていたにもかかわらず、ハーンは、東洋的な土着信仰は、西洋的な宗教の概念とは異なるという見方をする。ハーンの視点は、漱石の二分法的な世界観を相対化し、日本における宗教/世俗対立の歴史性を暴露するものである。
質疑においては、漱石とハーンの図式は異なるように見えるが、結局のところ、前近代的なものと近代的なものの対立、という同じ二分法に集約されてしまうのではないか、という疑問に対し、内藤は、漱石とハーンの問題が、それぞれに異なる問題設定と方法による、近代の超克であった点を強調した。
今回のセッションは、今年度のプログラムの成果を発表し、かつ、そこで培った知見をどのようにして海外に向けて提起するかを考えるための取り組みであった。羽田教授からは、日本語の「世俗化」と英語のSecularizationのニュアンスがずれている事実、世俗化を議論するに当たって、社会における宗教の影響力の低下に関わる「世俗化」の概念と、国家と宗教の制度的関係に関わる「政教分離」の概念は、注意して区分すべきことが再び指摘された。
(文責:渡邊祥子)