「世俗化・宗教・国家」セッション15
12月7日(月)、「共生のための国際哲学研究Ⅲ」第15回セミナーが行われた。
今回は、UTCP RA研究員内田力と金原典子による報告が行われ、人文社会科学においてどのように「世俗化・宗教・国家」を考えていくべきかが議論された。内田は、翌週授業で講演予定の奥山倫明教授(南山大学南山宗教文化研究所)の「宗教学とは何か」という問いに基づいて書かれた、日本とアメリカにおける宗教と政治の関係についての論文を紹介した。金原は、欧米の人類学者の論文を取り上げ、研究者として「批判的であること」が実はある種のイデオロギー、例えば啓蒙主義による「世俗的」な考え方、に基づいていることに自覚的であるべきだという議論を紹介した。授業では、「世俗化・宗教・国家」を考える上で重要なのは、研究者自身の立ち位置、また研究方法を再考することであるということが論じられた。
奥山先生のご専門は、宗教比較論及び宗教史研究であり、特に「比較宗教史」、「世界史」を意識されている。先生の論文を内田が二つ紹介した。「戦後日本の「国家と慰霊」問題に関する英語圏における研究動向」(宗教法学会『宗教法』28号(2009)掲載予定)では、戦後日本における「慰霊」の問題の扱われ方が論じられ、「基本的には公的な性格の問題ではないのではないか」(2)と述べられている。戦後日本の「慰霊」及び「追悼」に関する英語圏における研究動向を紹介することで、総理大臣の靖国神社参拝を始めとする国家においての追悼・平和祈念のあり方について、国内の議論とは異なる論点を提示することが目的とされている。ここで内田は、奥山先生が「慰霊」と「追悼」、「公的」と「私的」をどう区別しているのか、またこの区別は可能なのかという点を指摘した。「現代アメリカ宗教と公共性」(『政治と宗教のインターフェイス』成果報告書2006-2008,pp.1-18)では、ホセ・カサノヴァの議論である「宗教の脱私事化」が紹介され、「現代アメリカ宗教と公共性の関係に関して、一つの見通しを得ようと」(1)されている。そして仮説として「アメリカ合衆国における宗教の脱私事化、公共宗教化は(中略)19世紀の「神の国」思想の変遷から、現代における宗教右派の政治関与に至る長い道程のなかに、さらにいくつかの補強となるべき議論を導入しながら、位置づけられるべき現象ではないかと考えられよう」(17)と提示されている。内田は、この論文の日本に関する議論への接続性が疑問と指摘した。これら二つの論文は主に宗教と政治についての言説の紹介だったので、先生ご自信の「宗教」の捉え方を来週さらに窺いたい、という意見が多く出された。
金原は文化人類学者であるSaba Mahmood (2006, 2008a,b)とPeter van der Veer (2004)の論文を中心に、欧米における「世俗化・国家・宗教」に関する議論を紹介した。 “Is Critique Secular? A Symposium at UC Berkeley” (a,Public Culture. 20 (3) 447-452), “Secular Imperatives?” (b,Public Culture 20(3) 461-465),及び“Secularism, Hermeneutics, and Empire: The Politics of Islamic Reformation” (Public Culture 18(2) 323-347)では、2007年にUniversity of California BerkeleyでTalal Asad, Saba Mahmood等により催された、“Is Critique Secular?”と題した会議での議論を含めた内容が紹介された。Mahmood (2006, 2008 a,b)によれば“Secular vs. Religious”という二項対立的な考え方が欧米の研究者及び政府において支配的である。特に9.11以降secularな民主主義国家の重要性が強調され、religionであるイスラームがそれに適合しないものとして扱われてきた。しかし、Mahmood (2006, 2008a,b)は近代における法律、知的生産、経済的活動の場を支配するsecularがreligious/religionをもまた規定し常に構築していることを認識しなければならないと指摘する。また、自らを宗教に中立的でsecularであると認識し、学術的な批判を行う研究者は多いが、ここでのsecularな批判もまた啓蒙主義的なイデオロギーに基づいており、religious/religionもこのような知的生産の歴史において生み出されている。Mahmood(2006)はまた、アメリカ政府がreligion/religiousなものを構築する過程を外交政策から読み取る。彼女によれば、アメリカ政府は、自らの考え方に適した、つまり聖典を文字通り読むことを推進しない、イスラーム機関に多額な資金を寄付することで、「よいイスラーム」を創造する。Mahmood(2006)によれば、アメリカ政府及び研究者が構築する「宗教」とは、さまざまな解釈が可能なシンボルから成り立つシステムであり、たとえば絶対的な真実を信仰することではない。van der Veer (2004)は、“Religion, nation、and the public sphere” (In Gerrit Steunebrink and Evert van der Zweerde eds. Civil Society, Religion, and the Nation: Modernization in Intellectual Context: Russia, Japan, Turkey. Amsterdam: Rodopi)で、トランスナショナルな視点から「世俗化」「国家」「宗教」を捉える。例えば、イギリスやインドにおけるこれらの概念は、支配国と植民地という歴史的な相互関係において考えられるべきであると指摘する。両氏において共通するのは、これらの概念の形成過程を読み取る試みであり、また研究者自信の歴史的、政治的立場を振り返ることである。
発表後このプログラムのこれからの方向性について議論された。繰り返しになるが、国民国家の制度の中で自分達が研究していることに意識的であること、つまり「国家」を自明のものとしない、また研究対象が制度的規定に影響されることを自覚することが指摘された。また、例えば国家史ではなく世界史を描くこと、またはフィールド・ワークに基づくデータにより既存の概念を相対化するなどして、「イスラーム対世俗的な民主主義国家」といった非常に単純な世界観を超え、UTCPのテーマである「共生」の可能性を追求することができるのではないか、という意見が出された。
文責 金原典子