パリ第8大学・東京大学シンポジウム「大学における人文科学の未来」
パリ第8大学と東京大学はここ数十年間、学術交流を積み重ねてきたが、2009年12月19日、学長や副学長など要職の方々とともにシンポジウム「大学における人文科学の未来」が開催された(主催責任:Patrick De Vos, Pierre Bayard. 後援:東京大学フランス語・イタリア語部会)。一日の記録を網羅的に報告することは避け、個人的関心をそそられた点に限って定点観測風の報告を記しておく。
シンポジウムは、1969年生まれ、40歳の若き学長パスカル・バンクザック氏の発表「大学における人文社会科学の未来」から始まった。
彼は近代社会の民主主義的原理に即して大学の意義を強調し、大学に通うことのできなかった先行世代の生涯学習も含めた高等教育のアクセス権拡大の重要性を唱えた。高等教育は市民社会の根幹をなす批判精神の育成に欠かせないからである。そのためにはまず、大学制度そのものも批判対象から免れえず、例えば、女性や移民系の人々がどれほど大学の要職に就いているのかといった問いかけが必須である。大学が社会の創造性をもたらし、人々の社会的地位の向上をうながす場であるためには、集団性や国際性の促進が欠かせないとバンクザック氏は言葉を締めくくった。
小林康夫氏は発表「大学の責任――〈新しい人〉に向けて」において、レヴィ=ストロース、ハイデガー、デリダとの思想的対話を試みつつ、「良心を学ばなければならない」と言う。良心=意識(conscience)の語源に立ち返ると、さらに、「共に学ぶこと」(con +scientia)が公的に、無条件的に、没利害的に保証された場とは大学である。「良心を学ばなければならない」、「共に学ぶことを学ばなければならない」、しかし、絶対的な良心を拒絶し続ける限りにおいて、大学は新たな人間性を誕生させる場なのである。
Elisabeth Bautier(パリ第8大学副学長)氏の発表「人文社会科学に於ける基礎研究と応用研究」では、近年の研究活動の変容が具体的に指摘された。短期的な研究資金の配分によって効率的な研究へと偏りが生じてきていること、評価基準の設定(査読付き学術論文をもとにした評価基準)が研究の理論的・方法論な方向性に影響していること、批判的思考が衰退していること、大きなパラダイム構築が困難になっていることなどである。
午後の部では、パネル・ディスカッション形式で各専門分野の歴史的背景や現状、展望が語られた。
Pierre Bayard氏は「フランスの精神分析」について、精神分析は大学界や出版会である程度の存在感を示してはいるものの、しかし、精神衛生の分野において古典的な精神病理学や行動心理学が幅を利かせていることを憂慮する。行動主義的療法は因果関係によって患者の症状を解読するのに対して、精神分析は無意識の主体にまで踏み込んで、症状の象徴的な意味――それは不条理なものにみえるかもしれない――の次元を問おうとする。精神分析を大学から復権させることはこうした不条理さへの配慮を回復することであるという。
これに応答して、原和之氏は、「日本の精神分析」が欧米各国ほど一般に定着していない理由を日本文化の条件と関係づけて問題提起をおこなう。一神教的文化が機能しなくなり、神への信仰が動揺する際に精神分析の端緒が開かれるのであり、「大文字の他者」(ラカン)とは主体を動揺させる信仰の場を指す。ならば、一神教的伝統の再編と「大文字の他者」の関係において、精神分析の日本的な発明の道が開かれるのではないだろうか。
山田広昭氏は「文学研究」について、文学および文学研究が近代国民国家装置――大学を含む――の一部として成立してきた以上、国民国家の内的再編――やはり大学を含む――に応じて、文学もまたここ数十年で変容してきたと現状報告した。文学研究はなおも、テクストや言説の分析のためのモデルや道具立てとして有効であり、この点で、文学研究は他の学問領域の根幹をなすのである。
「記号論」に関して、Denis Bertrand氏は、現代の政治的言説における譲歩の現象、造形芸術における線の感性論を引き合いに出しながら、記号論が人文科学における一般的方法論たりうる可能性について論じた。
「表象文化論」は1986年に東京大学の教養学部の一学科として発足した学問分野であるが、田中純氏は表象文化論をむしろ脱ディシプリン的な営みであると規定する。表象文化論とは人文学の境界と方法を、具体的な作品や文化現象の分析を通じて、たえず問い直す運動である。マニュアル化しえない表象文化論は独学的な営みにみえるかもしれないが、しかしこれは共同体の否定ではなく、むしろ無制限の協同性をうながすものである。
清水晶子氏によれば、「クィアー研究」はまさに大学制度の限界に触れ、これに抵抗し続ける学問分野である。クィアー研究そのものが当事者の実存的解決と理論の普遍妥当性との緊張のなかに置かれ続け、さらには、こうした揺れ動きによってクィアー研究はアカデミズムにおいて非正当的な立場にとどまり続けるのである。
「哲学」について、高橋哲哉氏は、20世紀の大哲学者たちが去った後、21世紀初頭の現在は神々も英雄もいない哲学の拡散の時代であると規定した。だがこうした中心の不在は否定的な事態ではなく、哲学的遺産を精緻に継承すること、哲学を異分野との開放的な運動として展開させることといった積極的なチャンスでもある。
小林康夫は閉会の辞で、この一日のシンポジウムを通じて、日仏の人文科学をめぐる不条理さの感覚が共有されていることが浮き彫りになったと強調した。既存の学問分野を乗り越えようとする、あるいは、資本主義社会の論理に抗おうとする人文科学の展望が譲歩の語り口「なるほど……だが、しかし……」で反復されたことがその証左である。人文科学は本質的に孤独な営みであるが、しかし、いまだ見知らぬ者と同じ孤独をすでに分かち合っているという密かな友愛もまた人文科学に独特のものではないだろうか。
バングザック学長は、譲歩をさらに加速した口調、「だがしかし……だがしかし……」という強い口調でもって人文社会科学の展望を切り開くべきだと述べ、シンポジウムを締めくくった。
(文責:西山雄二)