【報告】UTCPセミナー「アントワーヌ・ブールデル」+UTCPレクチャー「19世紀における画家の石版画」
2009年11月9日、セゴレーヌ・ル・メン氏(西パリ大学ナンテール/ラ・デファンス校教授)によるセミナーが、つづく12日にレクチャーが開催された。
1. セミナー「アントワーヌ・ブールデル――彫刻家にして挿絵画家」
【セゴレーヌ・ル・メン氏】
ブールデル(1861–1929)といえば、上野の国立西洋美術館にも常設展示されているモニュメンタルな彫刻作品《弓をひくヘラクレス》を思い浮かべる方も多いかもしれない。しかしながら今回取り上げられたテーマは、ほとんど未知の領域といってよいブールデルの挿絵であった。
ル・メン氏はまず、この分野が従来の研究において等閑に付されてきたことを指摘した上で、ロマン主義的な伝統の流れを汲むブールデルの挿絵作品の特徴として「能動的な転用(transpositions actives)」をキーワードに挙げられた。ブールデル自身は手記や講義録のなかで、書物や挿絵について自説を披瀝することはなかったようであるが、「能動的な読者(lecteur actif)」という立場から、テクストを読んだ印象を挿絵に移し変えていた、というのがル・メン氏の重要な指摘であった。書物はときに「夢の導き手(meneur de rêves)」となり、独学で芸術的探求を深めていくときの参照源となっていたのだという。
その最たる例が、ジョゼル=シャルル・マルドリュスの『シバの女王』(1922)の挿絵として制作された一連の水彩であった。ブールデルは出版直後の取材に応えて、「私は読書中に、この恋愛詩が呼び起こしたすべてのイメージを、鉛筆で直接書き留めたのです」と語っており、読書に並行して挿絵のためのイメージが生成されていたことが確認できるのである。
ル・メン氏はこうした一連の挿絵本を、「高踏派出版からベル・エポック期まで(1888–1904)」と、「アール・デコ期(1919–1929)」の2つに大別する。20世紀に入ると、カーンワイラーやヴォラールといった有力な画商の主導によって、ピカソなどの芸術家が豪華挿絵本をさかんに制作するようになった。こうした時代の変化の中で、ブールデルは彫刻制作や教育活動への専念などによる一時的な中断は挟むものの、継続的に挿絵の仕事に携わっていった。
1880年代から1920年代にかけて、ブールデルが挿絵を提供したり既存の作品を挿絵に転用したりした書物は約30点に及ぶという。ジャンルは哀詩、デカダンス文学、大衆小説にまで及び、例えばフロベールの『三つの物語』やチェコの前衛詩のフランス語版なども手がけていた。文学作品の深い読みに裏打ちされた変幻自在な作品群は決して簡単な要約を許さないが、セミナーを通して紹介された多くの図版によって、まったく新しいブールデルの芸術家像が現れてきたのである。
セミナーの司会を務められた寺田寅彦・東京大学准教授の総括に続いて、吉田紀子・中央大学准教授がディスカッサントとして、コメントならびに補足的な発表を行われた。そこでは、1925年の現代産業装飾芸術国際博覧会(通称「アール・デコ」展)のためにブールデルが制作したポスターが紹介された。黒と橙色を基調としながら牛を天使をあしらった表現主義的な作風は、さらなる未知の領域を浮き彫りにするものであった。この博覧会では公式ポスターのために4人の芸術家が登用されたが、その中にブールデルが含まれていたことは、彼が彫刻家という範疇を超えて同時代に認知されていた証左といえよう。
【ル・メン氏、吉田紀子氏(ディスカッサント)】
質疑応答では、寺田氏の発案により、あらかじめセミナーの参加者全員に対して、コメントや質問をすることが求められていた。個々の参加者の専門分野や関心領域を確認しておくといった寺田氏による細やかな準備とル・メン氏の教育的な配慮によって、フランス語と英語による非常に活発な討議が展開されたように思う。あらかじめ全員が簡単な自己紹介を済ませていたことも幸いしたのかもしれない。ブールデル研究を目指している学生に対しては調査における実践的なアドバイスをおこない、自らの研究へと進むきっかけを尋ねられれば、文学研究を経由して現在に至った経緯を率直に述べられた。そのやり取りからは、学生や研究者に対して最大限の助言と協力を惜しまない、ル・メン氏の誠実な姿勢が伝わってきた。
【寺田寅彦氏(司会)、三浦篤氏(UTCP事業推進担当者)、小澤京子氏(UTCP研究員)】
なかでも、セミナーの副題に掲げられた「彫刻家にして挿絵画家(sculpteur-illustrateur)」という見慣れない言葉をめぐっては多くの議論が交わされた。彫刻と挿絵の2つの分野が、ブールデルにおいてどのような関係にあるのかという質問に対しては、基本的には両者は独立しているが、毎日のようにデッサンを繰り返したブールデルの場合、挿絵が様々な表現様式のなかの一つの刺激として機能している点、読書がインスピレーションの源泉となっている点において特筆すべきであるとル・メン氏は回答された。さらに、「彫刻家=挿絵画家」という存在をめぐっては、吉田氏からブールデル以外の同様の事例について、三浦篤教授から画家による挿絵と彫刻家による挿絵の違いについて、それぞれ質問が続いた。書物の挿絵を手がけた彫刻家について考えをめぐらせてみたとき、ロダンなどが念頭に浮かぶものの、結果として、ブールデルの特異性が改めて際立つことになる。ただしシャンゼリゼ劇場のファサードのレリーフを制作していることからもわかるように、ブールデルのデッサンや挿絵のなかに建築や彫刻に通じる造形性や構成力を認めることは可能であろうとのことであった。この分野については研究の蓄積がなく、詳細な検証は今後の課題となるが、今回のブールデルという事例から、様々な表現媒体を駆使した19世紀ならびに20世紀の多くの芸術家に対する理解が、ときに非常に限定されたものに留まっていることを再考する契機になったように思う。
なお今回扱われた作品群については2009年にパリのブールデル美術館で展覧会が開催されており、カタログの「ブールデルの挿絵本――レリーフからテクストへ(Livres illustrés par Antoine Bourdelle: du relief au texte)」に最新の研究成果がまとめられている。セミナーの最後に寺田氏が実物をご紹介くださったが、前述の『シバの女王』の挿絵に関する、ブールデル自身による校正段階での仔細な指示の書き込みは、まさに一見に値するものであった。
末筆ながら、このように充実したセミナーの開催のために、格別のご配慮を頂戴した外部協力者の寺田氏と吉田氏に深く御礼申し上げたい。
(報告:小泉順也)
2. レクチャー「19世紀における画家の石版画——『古きフランスへのピトレスクでロマンティックな旅』とノルマンディー」
【ル・メン氏】
「イメージとテクストの連関性」という上述のセミナーと共通する問題意識の下、今回の講演では、19世紀にシャルル・ノディエとテロール男爵を中心に刊行された『古きフランスへのピトレスクでロマンティックな旅(Voyage pittoresque et romantique dans l’ancienne France)』(1820–78年、全19巻)が分析対象として取り上げられた。フランス各地に点在する遺跡や歴史的建築物を、文章とリトグラフによる挿図によって留め置こうとしたこの浩瀚な書物は、優れた文学作品であると同時に美術作品であり、フランスの古遺物を網羅した懐古的記録であると同時に、ポストカードや旅行ガイドといった後代のメディアの先駆となった一冊でもあった。「古きフランス」を再建し保存するという企図の下、記念碑的建造物を紙上において蒐集せんとした本書は、それ自体が一つのモニュメントであるとル・メン氏は規定する。
本レクチャーでル・メン氏が着目するのは、中でもノルマンディーの表象である。本書はまずノルマンディーの紹介から始まり、フランス各地を巡った後に、再びノルマンディーに回帰して終わる。この地方には、相矛盾するかのような眼差しが重層的に投影されている。キリスト教時代・封建時代の遺構の残る、いわば古き良き時代の「純正」なフランスを残存させた地方であると同時に、「ピトレスク」というイギリス由来の美学概念を体現する土地でもある。(ちなみにテロール[テイラー]はイギリスの血筋を引く貴族であり、またノディエはウォルター・スコットを始めとするイギリス文学や美学の色濃い影響を受けていた。)王政復古期に発刊された第1巻と最終巻との間には、実に半世紀以上もの時間が経過しているが、風景やモニュメントを眼差す際のロマン主義的なトーンは、終始変わることがなかった。
ル・メン氏はまず、この書物の制作と刊行をめぐる文脈を、同時代の文献資料から丹念に再構成してみせる。そこからは、実に様々な論点が浮かび上がってくる。郷土の風景を領有する眼差しや当時興隆した「文化遺産(patrimoine)」概念に潜む政治性、風景と密接に連関した美意識を表す「ピトレスク」(picturesque/pittoresque)なる観念のイギリスからの受容と変容――それはリトグラフという新進画法がもたらす効果と親和的であったが、後のノディエにおいては、もはや「挿図入り」の語と同義でしかなくなる――、本書の挿図を手掛けた画家たちの多彩な顔ぶれ――ジェリコー、アングル、ヴェルネらアカデミスムを代表する歴史画家、ウァトレに代表される、当時は下位ジャンルと目されていた風景画専門の画家、舞台装飾家であり写真術の発明者でもあったダゲール、文化財修復の提唱者としても知られるヴィオレ・ド・デュクといった具合である――、この書の有する審美的かつ学術的という二重的な性質等々。このことは、本書が時代文脈の中で有していた意義の豊饒さの現れでもあるだろう。
18世紀末に開発され、19世紀には急速に普及するリトグラフ(石版画:石灰石の上にクレヨンで描画し、薬剤の化学反応により原版を作成する版画手法)は、眼前の情景を写し取った「粗描(croquis)」を完成作に反映させ、印刷物として流通させることを可能とした。このことは、ノディエが序文に掲げる「印象」の語とも共振している。すなわち、目にした光景から喚起される心情を、その場でイメージとして定着させることのできるメディアが、リトグラフだったのである。
ル・メン氏はまた、本書が体現している「物質的な想像力」についても言及する。挿図はすべてリトグラフで制作されているが、イメージ生成の基盤たる石というメディウムは、描画対象である建築物の素材とも呼応し合っている。紙製のページと石版、書物とモニュメンタルな石造建築との間に、アナロジカルな関係性がもたらされる。銅版画の精確で硬質な描線とは対照的に、暈かしの掛かった柔和なトーンを特徴とするリトグラフは、描かれた「場」の周辺に想像力の入り込む余地を残す。これはノディエのロマンティックな文体と相俟って、現実の風景をポエティックな記号へと変容させる。
本書の読者/観者に視覚的体験を与えるのは、挿図のみに留まらない。タイポグラフィーへのこだわりもまた、本書を特徴づけるものである。フェルマン・ディドが開発した「純正な」活字体や、古代ノルマン族を連想させるルーン文字の採用は、その一例である。書物の構造(architecture)にも工夫が凝らされている。図版がテクストに先行するレイアウトは、イメージを通じた想像上の旅行に観者/読者を誘う。それは本書を――比喩的な形容としてのみならず、物質的な意味でも――一個のモニュメンタルな建造物たらしめている。この、モニュメントとしての書物という意識は、シャトーブリアン(『キリスト教精髄』でゴシック式教会廃墟の保存を訴えた)とも通底し、ユゴー(『ノートルダム・ド・パリ』の、「これ(書物)があれ(大聖堂)滅ぼすだろう」との科白は象徴的である)やプルーストらに継承されていくこととなる。
さて、ノディエが本書を規定して言う「印象を辿る旅(voyage d’impression)」の一節は、逆説的な近代性を有しているとル・メン氏は言う。ロマン主義の色彩が色濃く、最終巻の発刊された1878年にはもはや時代に遅れつつあった本書が、後に勃興する印象派と共通の語彙を掲げ、なおかつ共通する描画対象、例えばノルマンディーを取り上げていたのであるから。さらには、「印象(impression)」という語は「印刷」や「記銘」をも指し示しており、本書に通底するテマティックを構成していることを氏は指摘する。
美術史・文学史・社会史上重要な著作と目されつつも、広く知られているとは言い難い作品が主題のレクチャーであったが、会場からは熱心に質疑が寄せられ、いずれもこのレクチャーの核心を再確認させてくれるものであった。すなわち、19世紀フランスにおいてリトグラフが、イメージの伝達・複製手段として非常に重要な機能を果たし、また新しい視覚的経験を可能ならしめたこと、序文に「印象」という語を掲げる本書が、後代の印象派と共通の対象を異なる流儀で――つまり「ピトレスク」に――描き出していたこと、自然物をも包含するイギリスの「ピクチャレスク」概念とは異なり、本書における「ピトレスク」概念は終始一貫して歴史的建造物を巡るものであったこと、等々である。
緻密な文献調査と実証的な論証に立脚しつつ、イメージとテクストが織り成す連関について、また書物が有する視覚的・物質的な構造について鋭利な理論的考察を施した本レクチャーは、「イメージ論の再構築」を企図する本プログラムにとって示唆するところ大であった。
【会場風景】
(報告:小澤京子)