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「世俗化・宗教・国家」セッション13

2009.11.14 羽田正, 世俗化・宗教・国家

2009年11月9日、「共生のための国際哲学研究Ⅲ」第13 回セミナーが行われた。

今回は、本プログラムのために来日されたユルドゥズ工科大学のハルドゥン・ギュラルプ教授により、「トルコにおける世俗主義、民主主義、公正発展党(AKP)」と題した報告がなされた。ギュラルプ教授は、トルコにおける世俗主義研究の第一人者であり、ヨーロッパ諸国の政教分離・世俗主義との比較も行っている。本プロジェクトを進めるうえで最適の研究者である。以下、報告の内容を簡単に説明したい。
ギュラルプ教授は、「イスラームが特殊な宗教である」という言説を考察したいと報告を開始し、まず有名なイスラーム研究者、主にゲルナーとルイスによる「イスラーム観」を紹介した。ギュラルプ教授によれば、ゲルナーはイスラームがその性格上、世俗化できない宗教であると論じ、ルイスはムスリム社会が不可変のエッセンスを保持し、宗教が社会の中心という構造があるという見解を述べている、という。ギュラルプ教授はこうした見解には大きな問題を孕んでいると考える。その一つは、何事も「イスラーム」によって説明しようとすることであるという。その例として、共通性の薄い、ワッハーブ運動とイランのイスラーム革命を両方とも「イスラーム運動」という枠組みで説明してしまうことの問題を指摘した。
 さらにイスラームに批判的な研究者が、急進的なイスラーム運動をもとにイスラームやムスリム社会を一般化する点や、南欧、南米などのキリスト教徒多数国においても必ずしも民主主義や世俗主義が主流ではない現状を確認し、教授は宗教によって過去の歴史全てを説明することが不可能であると述べた。
 そしてイスラームと民主主義の問題でしばしば中心的に取り上げられるトルコの事例に移った。ゲルナーは、イスラームは例外的な宗教であると考える一方、トルコについては「例外中の例外」という矛盾に満ちた見解を持っているという。こうした問題を踏まえて、民主主義とイスラームの両立を、特に公正発展党(イスラーム政党)の躍進から論じた。この問題について、投票行動の背後にある社会階層とトルコにおけるイスラームの社会的な位置付けから紹介した。
 ギュラルプ教授は、統計調査の結果、公正発展党の支持基盤が、労働者階級であり、幅広い中間層からの得票が同党の躍進を支えていることを明らかにした。一方、イスラームについては、1970年代以降、イスラーム政党が軍によってしばしば閉鎖され、またエルバカンが首班となった政権が軍のクーデターによって倒されたことから、公正発展党は、世俗主義の国是に触れない「人権」など普遍的なスローガンを掲げるという。
 またこの公正発展党が躍進を続ける背景として、これまでのトルコの主要なイスラーム政党が反欧米的であったのに対し、公正発展党がEU加盟交渉に積極的で、グローバル経済の中に於ける経済発展に実績をあげている穏健保守路線をとっていることが、幅広い国民からの指示の背景にあることを明らかにした。実際に、エルバカンが率いて福祉党が政権を獲得することとなった選挙における得票が20%だったのに対し、2002年におけるエルドアン率いる公正発展党の得票が37%に達し、さらに2007年に実施された選挙においては47%という圧倒的な強さを見せた。このことからも、エルドアン率いる公正発展党は従来のイスラーム政党との大きな差があることがわかる。一方で公正発展党やエルドアンら首脳部にとってのイスラームは、アイデンティティの問題と位置付けられており、国民のほぼ全てがムスリムであるトルコにおいて、公正発展党の穏健なイスラーム観が好意的に受け入れられているという。こうした公正発展党の穏健保守路線は、教条的な世俗主義者や急進的イスラーム主義者を周縁に追いやっているという。
 このような公正発展党の躍進は、イスラームと民主主義の両立が可能であることを示していると、ギュラルプ教授は指摘した。最後に、グローバル経済の中での経済発展と、政治的なリベラリズムを統合させ、一方でムスリムのアイデンティティを保持することに成功したトルコ事例は、世俗主義を前提としたヨーロッパ中心主義的発展モデルを修正する必要があるのではないか、と述べてギュラルプ教授は報告を締めくくった。
続いて、質疑に移った。
 質疑においては、30年間の軍とイスラーム政党との関係の中で、イスラーム政党は非イスラーム化されたのか、という質問にたいして、ギュラルプ教授は、公正発展党の首脳が宗教に根ざしたアイデンティティをしばしば(暗示的にだが)表明する点は非常に重要であることを説明した。
 ムスリム社会という概念が妥当なのかという質問に対して、ムスリム社会は存在しないという議論を紹介した上で、ムスリム社会に対比させて、西洋・ヨーロッパ社会、すなわちキリスト教社会という概念が存在するが、当然その中には多様性が認められ、宗教で社会を切り分けることは難しいが、一つの要素としては重要であることと指摘した。出席者の一人は、「イスラームと民主主義の両立が可能である」となぜ答えなければならないのか、答えること自体が、イスラーム例外論の土俵に乗っていることになるのではないか、と指摘し、ギュラルプ教授もその通りであると賛意を示した。
 また、イスラームのシンボルとしてしばしば取り上げられるスカーフの問題に関して、スカーフをかぶることは、ジェンダーの問題つまり、文化的な側面が強く、宗教的な信念とどのように分けることが出来るのかという質問があった。これに対して、ギュラルプ教授は、大変意義のある質問と認め、ジェンダー的な側面は非常に重要であると述べ、一方で女性のイスラーム主義者によって主体的に信仰表明の手段に用いられていることなど、様々な事例をもとに丁寧に説明した。
 最後に、イスラーム政党の変化の分析に際して、個人の役割や影響を重視しすぎているのではないのか、という指摘があった。これに対して、ギュラルプ教授は、1990年代のエルバカンからの世代交代は、エルドアンやギュルの個人に帰せられるものではなく、一つの強力な潮流と見るべきであると答えた。
 我々は今回のご報告の準備として、10月5日のセッションで『現代トルコ政治とイスラーム』を読んで議論していたため、トルコの現代政治史の大きな流れをつかんでいた。ギュラルプ教授の論旨は、明快で、細かい時系列的な流れを超えて、現在展開しているトルコにおけるイスラームと民主主義の関係の大きな変化をまさに「体感」できた。それと同時に、教授の優れた分析を、他国を見るときに如何に活用するか、我々も大きな課題を背負ったと感じられた。
(文責:阿部 尚史)

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