【報告】自由研究ゼミ「いま、知の現場はどこにあるのか」
学生の依頼と発意により自由研究ゼミ「いま、知の現場はどこにあるのか——大学、批評、出版、書店」(担当:西山雄二)が冬学期木曜5時限目(16.20-17.50)に開催されています。
毎回、多彩なゲストをお呼びして、大学と教養の問題に関して刺激的な話を伺っています。参加学生による的確な報告が「東大批評」ブログに掲載されていますが、抜粋を掲載します。
10/29 「日本の大学の現状と展望」
ゲスト:鈴木敏之(東京大学本部経営支援系統括長)
第四回西山ゼミ(10月29日)は、東京大学経営支援系統括長 鈴木敏之さんにゲストとしてお越しいただき、「日本の大学の現状と展望」というテーマでお話をうかがいました。
鈴木さんは文部科学省で国立大学法人化などにも取り組まれ、現在は東京大学に出向して総長のリーダーシップを補佐する形で大学運営に携わっていらっしゃいます。
いわゆる「官僚」と直に接する機会というのは学生にとってめったにないことで、しかも西山先生が企画段階から関わっている『現代思想11月号』の特集「大学の未来」では文科省の大学行政に対する鋭い批判が複数の論者から提出されていただけに、僕自身ゼミの直前はかなり緊張していました。
しかし、鈴木さんのお話をうかがって感じたのは、行政もまた大学の困難に直面していること、そしてそれは教員や学生が直面している大学の困難とかなり重なり合っていることでした。
たとえば「高学歴ワーキングプア」について、大学院重点化政策に対する批判が存在することを認めた上で、高度な専門知識・能力を持っている博士は、本来的には国際競争の観点からしてももっと活用されるべきはずであるのに、博士の「有用性」が積極的に認識されていない社会の現状の方にこそ問題の本質があるのではないかと鈴木さんは指摘します。また鈴木さんは、総じて大学に対する日本社会のまなざしが「冷ややか」であるように思われること、大学への関心が「入試」や「学費」など限定されており、総じて「私事」として扱われているように見えることを危惧します。こうした鈴木さんのスタンスは、「責任逃がれ」では決してなく、むしろ大学の困難を真摯に受け止めているからこそ必然的にたどりつくものだというのが、僕の印象です。
鈴木さんが強調するのは、「政策」とは「様々なアクターの相互交渉のダイナミズムの産物」であり、とりわけ大学は数多くの主体の間の緊張関係のなかで成り立っているということです。たとえば、大学における新自由主義を加速させたとして批判がある「大学設置基準の大綱化」は、単なる行政の恣意的な判断だったというよりは、人口動態などの「前提」に規定されるなかで選択された政策であったという指摘はとても重要な論点だったと思います。「事象」の原因をすべて「政策」に帰着させることで満足するような議論でなく、むしろ「政策」を規定している「前提」の方を行政を交えながら議論していくという態度こそが、政権交代を目の当たりにしている私たちにまさに必要とされているものではないでしょうか。
ところで、ゼミの冒頭、「いまの総長をフルネームで言えますか?」との鈴木さんの質問に答えられた学生はなんとゼロ(僕自身もすっかり忘れていました……)前総長の印象が強すぎたということがあるにせよ、これには鈴木さんもがっくりきたようで、こんなところにも大学への学生のまなざしが「私事的」であることが表れているといえるかもしれません。
11/5 「駒場キャンパスと教養」ゲスト:小林康夫(東京大学UTCP)
第五回西山ゼミ(11月5日)は東京大学教授(総合文化研究科表象文化論)の小林康夫先生をゲストとしてお招きし、「駒場キャンパスと教養」というテーマでお話をいただきました。
テキストの断片や言葉、あるいは思想家の名や記憶を、自身のバイオグラフィーという時間軸のまわりに配置していく小林先生の語りは、「いま、知の現場はどこにあるのか」というゼミの問いを超えて、知に触れるという行為一般への応答として為されたように思います。
まずゼミの冒頭、さきに亡くなったレヴィ=ストロースへの追悼の意を込めて、彼の晩年の対談から次の言葉が引用されました。
「ところで私の考えでは、人間はこの世界のなかではごく小さな場所を占めているのだということをよく自覚しなければなりません。自然の豊かさは人間を超え、どのような美術作品も、一つの鉱石、一つの昆虫、一本の花の見せてくれる豊かさに匹敵することは決してできないのだということを人間は自覚しなければなりません。一羽の小鳥、一匹の甲虫、一匹の蝶は、我々がティントレットの絵、レンブラントの絵に捧げるのと同じ熱い眼差しを誘って然るべきものなのです」("De près et de loin")
こうした知や芸術に対するレヴィ=ストロースの謙虚な姿勢に思いを馳せながら、小林先生は、「キャンパス」という言葉を、その語源である「野原」にまで遡っていきます。大学という場所とは一つの昆虫や一本の花に対するように知へと眼差しを向ける「野原」なのではないのかという一つの発想が差し出されました。
この「キャンパス=野原」というアイデアは、一方では1968年の経験と結ばれます。1968年を学生として経験した小林先生は、その後の歩みにおいて、特定の学問領域に属することを避け「フランス語」というひとつの「言語」が持ちうる普遍性に賭けるという形で、1968年の思想を「忠実」に引き受けてきたように思うと回想します。
また他方で「キャンパス=野原」は、同時に「戦場(camp)」というイメージとも結ばれます。すなわち大学は、大学〈外〉との緊張関係のなかで、知をcriticalなものとして提示しなければならない場であるということです。この「野原=戦場」の図式は、大学人であると同時に批評家でもあり、『知の技法』という学術書としては異例のベストセラーを世に送り出した小林先生のポジショニングを的確に捉えていると思います。
これらのことばの布置の中から、小林先生が「教養とは何か」という問いに対して与える一つの答えは、「教養とはapprendre à vivreである」というものです。教養とは知識の所有ではなく、「野原=戦場」という現場において「生きることを学ぶ」という「行為」であるということです。
ここには、おそらく、「自己満足としての学問」以上の意味が込められています。それというのも、デリダの最晩年のインタビュー"apprendre à vivre enfin"からとられたこの言葉には、「死」というかなり重い問題が埋め込まれているからです。「教養」という名詞が、「学ぶ=教える[apprendre]」という動詞と等置されるとき、「行為」することの不可能性としての「死」の問題が避けようもなく招きよせられます。
この引用元のインタビューで、デリダは「私は〈生きることを学んだ〉ことはけっしてありません」という否定形の言葉によって"apprendre à vivre"を語っています。これに対して小林先生は、「私は〈生きることを学び続けている〉、しかしまだ生きたことはない」と応答し、「死」に集約されるところの否定性の思想から身をひきはなそうとします。
「~し続ける」という補助動詞によって「死」を延期することはいかにして可能となるのか。この問いが今回のゼミを通して重く、しかし「野原=戦場」としての大学の未来に向けた一つの希望として提示されたと思います。
さて次回はシノドス主宰の芹沢一也さんにお越しいただきます。ゼミに出席される方は、シノドスの活動をネットでチェックしてきてください。
(文責:前田和宏)
学生による全学自由研究ゼミナール(2009年度冬学期 時間割コード21171 )
「いま、知の現場はどこにあるのか——大学、批評、出版、書店」毎週木曜5時限目16.20-17.50 東京大学駒場キャンパス 515教室
担当教員:西山雄二(東京大学特任講師)
履修者でなくとも各回聴講自由
11/12 「知の交流空間の創造——シノドスの試み」ゲスト:芹沢一也(シノドス主宰)
11/19 ワークショップ「大学の未来――『現代思想』2009年11月号を読む」@18号館4階コラボレーション・ルーム3
11/26 「編集者とはどういう生き物なのか」ゲスト:河村信(編集業者)
12/3 「批評の現在形」ゲスト:宇野常寛(批評家)
12/10 「人文書を販売することの喜びと苦しみ」ゲスト:辻谷寛太郎(東大生協本郷書籍部)、永田淳(早稲田大学ブックセンター)、阪根正行(ジュンク堂新宿店)
12/17 学生発表
1/14 学生発表
1/21 総括討論(西山)