「世俗化・宗教・国家」セッション12
2009年10月26日、「共生のための国際哲学特別研究Ⅲ」第12回セミナーが行われた。
今回は、工藤庸子氏をお招きしてのレクチャーであった。工藤氏は、『宗教vs.国家』(6月1日の講読文献)や『フランスの政教分離』(前回10月19日の講読文献)の著者である。
工藤氏は近年の研究テーマを「制度のレベルで宗教を考える」ことであると自己紹介して、レクチャーをまず、カトリックの制度面の特殊性をあきらかにすることからはじめた。
カトリックは、その背後にバチカンという教会国家をもっている。バチカン市国は、外交官の養成機関を備えている(この機関は教皇を輩出している)。そのため、カトリックは国家としてふるまうことのできる唯一の宗教であるといえる。もちろんプロテスタントも、あるいはイランのシーア派も、政治とむすびついているのであるが、カトリックはそれ自体が主権国家となりうるものであり、この点がプロテスタントとはまったく異なる。具体的には、破門という制度が教徒への強制力になっていた。このことから、カトリックをターゲットとして推進されたフランスのライシテ(脱宗教)は、国外の政治主権とも交渉しなくてはいけなかったのである。このことが、1905年の政教分離法成立に際して、カトリック教徒は共和国よりもバチカンに従った背景である、と工藤氏は解説した。
つぎに、工藤氏は以前、本セミナーで提起された質問をとりあげた。6月1日、『宗教vs.国家』を講読した際に発せられたものである。該当の記事を再掲する(2009年6月1日セッションの当UTCPブログ報告記事、http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2009/06/report-seminar-secularization-12/)。
参加者からは、本書に限らず、フランスの政教分離・ライシテを論じる際に、分離・攻撃の対象とされたカトリック教会・修道院側の事情や対応の分析が抜け落ちているのではないか、という意見がだされた。カトリック教会側は19世紀以降の政教分離の時代を受難の時代と見なしているという。この件に対して、他の参加者からは、自身のアイデンティティの対象を国家とするか、宗教とするかによって、歴史の見方が大きく変わる可能性があるのではないかと指摘があった。
これに対する工藤氏の回答は以下のとおりである。
中世以来、王権と教権は不可分であったため、カトリックのなかからフランスという国民国家は生まれたといえる。このようなことを前提に共和国の歴史をふりかえると、一般に19世紀以降は宗教性の凋落と形容されることになる。工藤氏によると、このようなプログレッシブな歴史観はジャン・ボベロ氏も共有しているのである。
一方、たとえば上智大学で翻訳された『キリスト教史』ではカトリック内部からの歴史観が表明されている。そこにおいて、19世紀が霊的な目覚めの時代として位置づけられている。イギリスではチャリティー活動が活発になり、同様の運動がフランスでは修道院を中心に展開された。そして、19世紀以降は宣教活動がグローバル化してゆき、それはフランスにおいてもっとも盛んであった。実際、復活祭での聖体拝領数が最多になったのは1870年であった。このような世界観に基づくならば、20世紀以降はカトリック側が綿密に戦略を練った末に、ライシテを現代世界における自身の存在原理とするに至った、と表現できるだろうと工藤氏は指摘した。
以上のような説明に対して、「国家の側が「これは教会の領域」「これは個人の問題」というように、恣意的に切り分けているとすれば、国家対教会という構図は正しいといえるのか?」との質問が出席者から出た。工藤氏の回答は、フランスの民法はその半分が教会法からの継承であることからもわかるように、国家と教会とのあいだに連続性は存在する、そのため、両者を分割して描くのは全体のストーリーのなかでのせいぜい1章分のものにすぎない、とした。
最後に、カトリックに対して、プロテスタントの事例を考えるために、工藤氏はアメリカにおける宗教に言及した。フランスでは「宗派」単位で議論がなされるが、アメリカにおいては「教派(デノミネーション)」が単位となっている。これは、アメリカへの植民が教派単位でおこなわれたためである。これが次第に互いに離反しはじめたため、アメリカ独立にあたって特定の教派と国家権力が結びつかないように、政教分離を定めたのであると説明した。したがって、おなじキリスト教であってもプロテスタントにおいて政教分離を考えるには、このような、フランスのライシテ(政教分離)とは異なる時代背景を考慮する必要があるとした。
(報告:内田力)