【UTCP Juventus】安永麻里絵
2009年度UTCP Juventus 第22回は、安永麻里絵(RA研究員)が担当いたします。
「美術館」という言葉から、みなさんはどのような空間を想像するでしょうか。 順々につながる展示室、壁には絵画がひとつまたひとつと架けられ、台座やガラスケースに収められた彫刻があり、それらを順にひとつずつ眺めながら進んでいく…。多くの方がそのような空間を思い浮かべるのではないでしょうか。あるいは世界で最もよく知られた美術館、ルーヴル美術館のような、巨大な絵画が天井までぎっしりと飾られた空間を想像されるかもしれません。日本の美術館では前者のような展示空間が一般的ですが、このような美術館空間のあり方と、ルーヴル美術館のようなそれとの間には、歴史的に大きな隔たりがあります。私の主な研究主題は、このような展示空間の歴史的変遷を辿ることです。
白い壁に順に絵画作品が並べられた展示空間は、一般的にホワイト・キューブと呼ばれますが、これは1929年に開館したニューヨーク近代美術館がこの展示方式を実践して以来、近代美術館の典型的な展示スタイルとなりました。しかし、それ以前、とりわけ1900年から1920年代にかけて、美術作品を如何に展示するか、展示空間はどうあるべきか、ということは美術館にとっての大きな問いとなり、各地の美術館で様々な試行錯誤がなされていました。とりわけ美術館が社会教育的役割を果たすことが要求されていたドイツでは、このような議論と実験が活発になされたのです。
ニューヨーク近代美術館でアレクサンダー・カルダーの作品を鑑賞するアルフレッド・バー、1936年撮影
ところで、なぜ展示空間のあり方が問題となるのでしょうか。あの有名な《モナ・リザ》は、世界中どこの美術館のどの壁に飾られたとしても、変わらずその微笑を私たちに投げかけてくれるのではないか、という疑問を抱くかもしれません。しかし、例えば1974年、日本に初めてやって来た《モナ・リザ》は、上野の東京国立博物館の特別第五展示室で、3層構造の防弾ガラスと7層構造の壁面でできた展示ケースに収められ、横には警備員が立ち、詰め掛けたおよそ150万人の人々は、押し合い圧し合いしながら展示室内をぐるぐるめぐる回廊を進み、漸くその微笑の前に立つや後ろ髪を引かれながらその場を後にしたのでした。それは、額にガラスをはめ込み作品の前に柵を立てただけの当時のルーヴル美術館に飾られた《モナ・リザ》を見るのとは、ずいぶんと違った体験であったろうと想像されます。
つまり、展示空間はそこに在る美術作品の体験の仕方を規定するものであり、それは鑑賞者にとって不可避的なものとして差し出されるのですが、その空間の構成のされ方によって作品の体験のされ方もまた異なってくるのです。「され方」というやや不自然な表現をしたのには理由があります。展示空間は鑑賞者にとっていわば受動的に受け容れるよりほかないものですが、その空間には構成者、つまり展示空間の作者が存在します。この作者は限定的な一人の人物を指すとは限らない場合も多く、《モナ・リザ》の作者はレオナルド・ダ・ヴィンチである、という場合とはやや意味合いが異なる部分もあるのですが、ここでは展示空間のコンセプトを負う主たる人物という意味で作者と呼びたいと思います。日本の美術館の展覧会カタログではまだあまり見かけることはありませんが、欧米の展覧会カタログではカタログの編集者や執筆者とは別に、展覧会の構成責任者の名前が明記されることも少なくありません。たとえば美術館建築には物理的な制限があるように、展示空間のすべての構成要素を作者の意図の反映と見做すことはできない部分もありますが、多かれ少なかれ、展示空間はこの作者によって構成された人為的なテクストと見做すことができます。展示論とは、美術史研究の領域においては比較的新しい分野ですが、美術館の空間をテクストとして歴史的・美学的に読み解くことであるといえます。
さて、このような観点から私が特に研究対象としているのが、ドイツのフォルクヴァング美術館です。この美術館ははじめ、現在のノルトライン・ヴェストファーレン州はルール工業地帯に位置するハーゲンという町にカール・エルンスト・オストハウスという人物によって設立され、1902年に開館しました。1921年に創設者の死とともに閉館を余儀なくされ、近代絵画コレクションの大半は近隣のエッセン市に売却され、ナチス政権下の近代絵画排斥運動を免れたものは、同名の美術館で現在も保存・公開されています。
オストハウスの美術館の最大の個性は、彼がマティスやゴッホ、セザンヌをはじめとする近代美術に関心を向ける以前から、非西欧圏の美術品を蒐集の対象としていた点にあります。コプト文化やイスラム文化、そして日本美術への関心が近代絵画への関心とオストハウスの中で共存していたことは、近代化が生み出した人間性の喪失に対する危機感を抱く中で、彼がその克服あるいは再生への道筋をこれらの文化の中に見出そうとしたことを示唆しています。
彼のこのような態度は、美術館の中で非西欧の文化の中で生み出された様々なものを、美術作品として近代絵画と併置して展示するという空間を生み出しました。その実現に至る過程で彼は、「展示空間は中立的でなければならない」という、ホワイト・キューブの源泉ともいえる概念を打ちたてたのです。19世紀の画家ドーミエが描いた《エッケ・ホモ》と題された作品の横にゴシック期に制作された聖母の板絵を飾ったり、マティスやノルデの作品の横にアフリカやオセアニアの彫像を並べたりしました。この展示手法は当時の美術館関係者の注目を集め、後のエッセン・フォルクヴァング美術館でも実践され、また、ニューヨーク近代美術館の初代館長に就任したアルフレッド・バーはエッセンの展示空間からインスピレーションを得たといわれています。
時代や文化といった背景の異なる事物を美術作品として美術館に展示することは、様々な問題をはらんでいます。美術作品という概念や美術館という場所がそもそも西欧で作られたものであり、そこにそのような文脈に本来つながることのない事物を持ち込むということ自体が暴力的な搾取である、という批判は真っ先に問われる問題ですが、これは欧米の植民地主義という過去の問題として片付けることができるほど単純なものではありません。オストハウスの時代に欧米から楽園と見做されたバリや、特殊で異質な伝統文化を持つ国としてもてはやされた日本は西欧化・近代化を経ており、いまや全国の都道府県に公立の近代美術館が存在し、西欧美術の展覧会がひっきりなしに開催されています。モネやゴッホ、セザンヌといった近代美術の作家たちの作品は日本の鑑賞者にとってときに日本美術以上に身近な存在となり、その一方でアジアやオセアニアあるいはアボリジニの文化が異文化として展示されています。また、ホワイト・キューブという展示空間が持つ意図的な抽象性に対する批判を踏まえて、今日の美術館では新しい展示の手法も模索されており、そのような展示構成はホワイト・キューブの成立以前の時代の前例と非常に似通っている点も多く存在します。ホワイト・キューブが覇権を握る以前の美術館人たちの様々な試行錯誤と展示空間における実践を分析することを通じて、制度の意義自体が問われている美術館という場所のあり方の可能性を思考することが私の研究の課題です。現在は、文化人類学と美術史学の両方に接近し、異文化を如何に正当に展示することが可能かを考え続けたカール・ヴィートというアジア研究者に着眼しています。
フォルクヴァング美術館のカール・ヴィートによる展示風景、1921年頃撮影