【UTCP Juventus】朴嵩哲
2009年のUTCP Juventus第18回はRA研究員の朴嵩哲(心の哲学、認知科学の哲学)の研究を紹介させていただきます。
大きく三つのテーマに分けて紹介したいと思います。まずこれまでの研究を振り返り、現在取り組んでいる課題、さらに今後取り組むつもりの課題について述べていきます。
〈マインドリーディングについての理論説とシミュレーション説〉
私はこれまで、「マインドリーディング」(「心の理論」、あるいは「フォークサイコロジー」とも呼ばれています)について研究してきました。マインドリーディングとは、他者に心的状態を帰属させ、行動を説明したり予測したりする日常的実践のことです。私たちはほとんど無意識的に他者の心を把握しています(それが正確かどうかはさておき)。私たちはそうしたときに頭の中で何をしているのでしょうか。その仮説として、哲学者、認知科学者が提示している説として理論説とシミュレーション説があります。理論説論者は、私たちは心理学者のように理論を用いて他者を理解しているのだと主張します。これに反論して、シミュレーション説論者は、そのような理論は必要でなく、私たちは自分の心をモデルとした(相手の立場に自分自身を置いてみる)一種のシミュレーションを行うことによって他者を理解しているのだ、と主張します。
さて、問題なのは、理論説論者の一部がマインドリーディングの際に使用される「理論」は「暗黙理論」であるという見方を取っていることです。暗黙理論論者たちによれば、「理論」とは各々の認知メカニズムが遂行する操作の規則性であると考えられます。詳細は省きますが、このような考え方の背景には、マインドリーディングの理論(仮に存在するとして、ですが)は、文法の理論と同様に、明示的なかたちで参照したり口に出すことができないという事実と、さらに、人間の認知を説明する有力な考え方としてコネクショニズムが台頭してきたということが挙げられます。しかし暗黙理論という考え方のもとでは、シミュレーションの際に働いているメカニズムも本質的には暗黙的な理論的推論を行っているということになりかねないため、シミュレーション説は理論説の一種に過ぎないのではないかという懸念が生じます。
修士論文で私は、そうした懸念に対し、暗黙理論という考え方は、さまざまな認知メカニズムの興味深い特徴を取り出すものではなく、むしろそれらの区別をなくしてしまうような不毛な考え方であることを指摘しました。さらに、暗黙理論という考え方を仮に受け入れたとしても、理論説とシミュレーション説は、それぞれが仮定する認知メカニズムのレベルにおいて区別することができるということを示し、両説の違いを明瞭にしました。以上の内容は本年度の科学哲学会で口頭発表する予定です。
次に、現在取り組んでいる課題について述べます。
〈精神医学における疾患分類と診断基準の問題〉
マインドリーディングについての理論説、シミュレーション説の論争にかかわる哲学者たちは、マインドリーディングに関連するさまざまな科学的知見を参照し、それらを包括的に説明するモデルを立てようとしています。とりわけ注目すべきなのは、彼らが「心が読めない」とされる自閉症のデータを重要視し、その主な症状の説明を目指していることです。
しかし、こうした「経験的データに裏打ちされた」理論を打ち立てるためには、そのデータの基礎を点検する必要があります。たとえば、自閉症とはいったい何なのでしょうか。精神医学や発達心理学の文献における「自閉症」とは、ある診断基準に基づいて抽出された人たちです。一般に精神障害の診断は、米国精神医学会によるDSM(現在はDSMⅣ-TR )あるいは世界保健機関によるICD(現在はICD-10)というマニュアルに基づいて行われます。こうした診断基準やその背後にある概念についての問題の検討が、今後の課題の一つとなります。これまでの哲学者の議論を一瞥すると、多くは「精神障害をどのように定義すべきか」という一般的概念についての問題に偏りがちですが、私は、個々の疾患の診断基準の構成のされ方、精神医療などの実践における診断基準の個別ケースへの適用のありかたなどにも注目して検討していくつもりです。そうした考察を経た上で、精神医学が考える「自閉症」について明らかにしていきたいです。こうした精神医学の問題に対する考察は、来年のBESETO哲学会議で発表する予定です。
最後に、今後取り組むつもりの課題について述べます。
〈精神障害と責任〉
上で触れた精神医学における分類や診断といった問題はさまざまな哲学の問題と切っても切り離せない関係にあります。たとえば、心とは何か、脳と心の関係をどう考えるか、などといった問題です。それだけでなく、責任帰属や刑罰といった倫理的問題にもかかわりがあります。犯罪を犯した精神障害者の一部には、刑法で責任の全面的な免除(心神喪失)や一部免除(心神耗弱)が認められる場合があります。そこで、最終的な責任能力の有無の判断は裁判官に委ねられているにせよ、精神医学の専門家の診断が参考にされるのです。私たちの精神障害の理解やそれに基づく精神障害の分類や診断基準は発展途上にあるのですが、実践において私たちはすでにそうした分類に基づいて責任能力帰属や刑罰にかんする判断を行っていることになります。
今後の研究では、どんな精神障害について、どんなときに責任を帰属させることができないのか、ということを考えていきたいと思います。参考になる議論として、N. リーヴィー氏は本年7月のUTCPにおける連続講演で、サイコパス(人格障害の一種)には責任を問えないという興味深い議論を提示しています。彼は、道徳的善悪を理解するためには「他者の苦痛を理解する」という一種のマインドリーディング能力が不可欠であるが、サイコパスにはそれができないので道徳的な善悪の区別ができず、したがって責任を問えないと主張しています。私は、「心が読めない」とされる自閉症の場合はどうなのだろうかということに関心があります。こうした問題を考える際に、マインドリーディングや自閉症についての考察を生かすことができると思います。