「ファンタジーの再検討」第3回研究会:カトリーヌ・マラブーと「哲学におけるファンタスティックなもの」
今回は、カトリーヌ・マラブーの『ハイデガー変化』に従って、哲学における「ファンタスティックなもの」について考察した(Catherine Malabou, Le change Heidegger. Du fantastique en philosophie, Paris, Léo Scheer, 2004. 以下Cと略する)。
マラブーは、西洋における「形而上学」の呪縛から離れて「他なる思考」(autre pensée)──存在そのものへと関わる思考──へと向かったハイデガーを、根源的な「変化」(change)のリアリティを追究した哲学者として再評価していく。そこで分析されるのは、「変化」を意味する三つの言葉、Wandel, Wandlung, Verwandlung(これらをマラブーはW, W, Vと略記している)が、後期ハイデガーのテクストにおいてもつ重要性である。マラブーによれば、ハイデガー哲学においてW, W, Vは、互いにオーバーラップする二つの変化を指している。第一には、形而上学のエコノミーを駆動する変化であり、第二には、その変化を変化させて、形而上学を破壊し、脱構築し、他なる思考を開始するような変化である。ここでマラブーが強調するのは、後者の非形而上学的な変化が、前者の形而上学的な変化に対し、いささかも外部的ではないということである。すなわち、形而上学への批判は、そのエコノミーからすっかり離脱することではなく、それを異なったエコノミーへと──内在的なしかたで──変化させることなのである。それゆえマラブーは、他なる思考を「超形而上学的」(ultramétaphysique)と形容している。
では、形而上学のエコノミーとは、どのようなものか。それは、存在そのものを存在者性と交換してしまう「等価性」(Geltung, valoir pour)のエコノミーである。西洋の形而上学は、存在そのものを存在者の最上位の類と見なすことで、存在そのものを思考し損なってきた。この事情を、マラブーは、資本主義のシステムと類比する。講演「ハイデガー、資本主義の批判者」では、次のように言われている。「存在者が存在の場を奪うというこの交換、ないし混同はさらに、存在の物神化にまで至る。事実、存在者のカテゴリーにおいて存在を考えるなら──至高の存在、イデア、原理、実体──、存在を事物化することになるのだ。存在はこうして、等価交換の諸関係、このゲームの外部にあるようなひとつの参照項の位置に置かれる。この意味において、形而上学にとっての存在を金に近いものと見なすことができるだろう」(カトリーヌ・マラブー「ハイデガー、資本主義の批判者──経済という隠喩の運命」千葉雅也訳、『SITE ZERO/ZERO SITE』第0号所収、メディア・デザイン研究所、2006年、131頁) 。ひとことで言うならば、形而上学とは「存在論的資本主義」なのである(C99)。
ところがマラブーによれば、等価性の形而上学とは異なったエコノミーがありうる。それは「恩恵」(Gunst, faveur)のエコノミーである。『ハイデガー変化』では、次のようにまとめられている。「利益を上げることも資本化もしないような、現前性のそれ自体に対する根源的交換がある。この交換は、存在と存在者性[étantité]の交換ではなく、存在とそれに固有の本質[essence]との交換である。第一の交換のただなかでは「等価性」(gelten)の法が支配するが、第二の交換のただなかでは「恩恵」(Gunst)が自在に作動する」(C193)。また、「第一の変化──第一の交換装置――とは利益の変化だが、第二のそれは分配の変化であり、つまり共‐所属[co-appartenance](Zugehörigkeit)の変化である。二つの区別される我有化の様態がある。「代償による」(par contre-partie)我有化は、他者の我有化である。「宛先による」(par adresse)我有化は、他者における我有化であり、いわば他者へと身を捧げることである」(C195)。
一見したところ、第一/第二の変化のあいだで対立しているのは、資本主義的な交換と非資本主義的な贈与であるように思われる。しかしマラブー=ハイデガーは、純粋な贈与による資本主義の決定的切断を求めているのではない。「反対に、次のことを認めなければならない。すなわちハイデガーにとって、恩恵は変化を中断するものではなく、むしろ一つの新しい存在論的交換として現れるのだということである」(C195)。さらに、マラブーによれば、二つの変化において優先権をもつのは、第二の変化のほうである。「第一の変化はその可能性を第二の変化に負っている。存在と存在者性の置換は、根源的には、密かに、恩恵ないし恩寵から由来している」(194)。あるいは、次のようにも言われる。「ファンタスティック。第一の変化、第一の交換は、形而上学そのものがみずからの他者〔=他なる思考[autre pensée]〕と交代するときにおいてのみ想像できるのであり、そのときにのみ思考にとっての一場面として可能となるのである。つまり、変換可能性が別のしかたで経済化されるときである」(C96)。
『ハイデガー変化』における「ファンタスティックなもの」という概念は、まずもって、ハイデガー哲学へとアプローチするマラブー自身の手つきを形容している。ハイデガーのテクストにおいてWandel, Wandlung, Verwandlungは、意図して重みづけされた「概念」ではなく、ありふれた言葉であるにすぎない。マラブーの考えでは、たとえWandel, Wandlung, Verwandlungの意義を再評価するにしても、それを概念化してしまうなら、形而上学のエコノミーにおいてふたたび資本化を行うだけになってしまう。そこでマラブーは、Wandel, Wandlung, Verwandlungを、密やかに表舞台へと連れ出すのである。形而上学のエコノミーにおいて現前性を与えるのでも、しかしそうした現前性に抗するエクリチュールないし痕跡(デリダ)、あるいは逃走線(ドゥルーズ+ガタリ)としてWandel, Wandlung, Verwandlungを非現前化するのでもなく、それに別のしかたでの現前性を与えるのである。W, W, Vという三つ組は、形而上学のエコノミーとその絶対的外部という対立関係を脱構築するときに、密やかに表舞台へと連れ出されて現れるもの(phantasia)である。このようなアプローチによって、形而上学のエコノミーと他なる思考のエコノミーとを内在的に変換しながら現出する存在のダイナミクス──存在論的代謝(métabolisme ontologique)――が問われることになる。マラブー曰く、「存在論的代謝[métabolisme ontologique]の可視性の様態、いまだ見られざるものの知解性と明証性――「哲学における」ファンタスティックなものは、変化へのアプローチの方式を指すと同時に、変化しているもの・これから変化するものの異他性[étrangeté]それ自体を指す」(C23)。
マラブーによれば、現実のすべては、変態するファンタスティックな存在、変形するイメージないしパンタシアである──「人間の、神の、存在への関係の、存在それ自体の、存在者と本質のW, W, V、言葉と哲学のW, W, V……。これらの変化は、どんな「ファンタスティックな怪物」を産み出すわけでもない。ハイデガーには、砂男や、カフカのオドラデクや、クライストの操り人形や、ニーチェのツァラトゥストゥラや、クローネンバーグの蝿といったものに比べられるような「形象」はない。変態と移転は、ここでは、みんな[tout le monde]の変態と移転なのである。ファンタスティックであること、それは、みんなのようであることだ。ファンタスティックなものとは、みんなの新しい顔である」(C364)。他なる思考とは、形而上学的な等価性のエコノミーを裏切って、存在そのものが──利益を上げることなしに貧しく──他なるものへと贈与交換されていく──像可塑的(cinéplastique)な──場面へとひたすら内在することである(このことは、世界それ自体を「メタ映画」と見なすドゥルーズの考えにもつながってくるだろう)。心理学的な力能としての想像力ではなく、世界それ自体の形成原理としての想像力――世界それ自体がみずからを想像するのである。イメージないしパンタシアは、現実を反射する代理‐表象ではない。イメージないしパンタシアのそれ自体における──自己触発的な──反射こそが現実である。マラブー哲学にもとづくなら、文学やアニメ、漫画などにおけるファンタスティックな表象は、現実を揺さぶる外部性のシンボルとしてではなく、現実の内在的変化を誇張的にイメージ化したものとして解釈しうるだろう。
(文責:千葉雅也)