【旅日記】旅立ちの唄——亡命者の大学The New School for Social Research
衆議院選挙で民主党の歴史的勝利が達成された翌日、映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」の上映と討論会のために、晩夏の台風のなか、アメリカ東海岸に旅立った。
異郷へ旅したものは往々にして、正確には真実とは言いがたいことまで
主張しがちなものです。――『ほらふき男爵の冒険』
映画「哲学への権利」では、デリダが脱構築の論理によって創設した国際哲学コレージュを例として、効率性や収益性が重視される資本主義において、哲学や芸術などの人文学的なものの現場をいかに構想するのか、が問われている。今回の旅ではデリダが定期的に、あるいは短期間教鞭をとっていた四つの大学で映画上映と討論会を準備している。脱構築はたんなる理論ではなく、デリダによる研究教育の実践と切り離せない。彼に縁のあるアメリカの大学で上映と討論をおこなうことで、研究教育と脱構築の関係やその展望を問いたいと考えている。まずは9月3日、ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで第一回目の催事が開催された。
(コロンビア大学の美しいキャンパス。新入生歓迎の式典用にテントが準備される。)
亡命者の大学――The New School for Social Research
ニューヨーク市のグリニッジ・ヴィレッジ周辺に位置するThe New School for Social Research は、1918年に教育哲学者ジョン・デューイらの発意によって創設された。第一次世界大戦中、ナショナリズムの高揚によって政府による表現(例えば反戦の表明や外国人への寛容)の検閲や抑圧が強まっていた頃、コロンビア大学のリベラル派教師が中心となって新たな学府――New Schoolという校名は彼らの理想を物語る――を設立する動きが起こったのだ。例えば、必ずしも学士号をもっていない社会人向けの大学院をアメリカではじめて創設したのはNew Schoolだった(校名は日本語で「社会研究新学校」と訳されるよりも「ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ」を仮名表記されることが多い)。
1930年代、ドイツやイタリアなどでファシズムの暗雲が立ち込めると、The New Schoolは亡命を余儀なくされたヨーロッパ知識人(とりわけユダヤ人と社会主義者)を受け入れるために制度的に尽力した。1933年、ロックフェラー財団の支援を受けて、学内にThe University in Exile(亡命者の大学)が大学院部門として設立されたのだ。この大学は戦時中、180名以上ものヨーロッパの卓越した知性を受け入れ、この学府の知的な歓待精神を証明することになるだろう。The New Schoolは1918年と1933年に二度誕生したと言われる所以である。
現象学的社会学の始祖アルフレッド・シュッツ、異形の政治哲学者レオ・シュトラウス、ゲシュタルト心理学の創始者マックス・ヴェルトハイマー、『ファシズムの集団心理学』を著わしてナチスから危険視された精神分析家ヴィルヘルム・ライヒらが海を渡って「亡命者の大学」へと迎え入れられた。死後公刊されたハンナ・アレント(1967-75年在職)晩年の講義録「カントの政治哲学」はThe New Schoolで実施されたものであり、哲学者ハンス・ヨナスが生命や責任の哲学を練り上げたのはThe New Schoolに奉職中(1955-76年)のことだった。
(創設当初から残っている国際様式の建物)
また、The New Schoolはフランスとの学術交流においても重要な役割を果たしてきた。1942年、亡命したフランス語圏の研究者たちのために「高等研究自由学院L'École libre des hautes études」がThe New Schoolの近隣に創設される。ナチス政権によるフランス占領に反対してド・ゴールは亡命先のロンドンから対独抵抗運動「自由フランス」を世界各地に呼びかけたが、自由学院の設立はその一環であった。ジャン・ヴァールらの尽力によってロックフェラー財団の資金援助で開設されたこの亡命者の学院では(初代事務局長はアレクサンドル・コイレ)、クロード・レヴィ=ストロースやローマン・ヤコーブソンが教鞭をとっており、二人の知的交流が構造主義思想の着火点となったことはよく知られている。戦後、自由学院はパリへと徐々に拠点を移し、「社会科学高等研究院l'École des hautes études en sciences sociales」として改編されたが、その後もThe New Schoolとの密接な連携を保っている。
こうした歴史的背景から、The New Schoolの哲学科はアメリカでも珍しくヨーロッパ大陸哲学が講じられている学科である。アメリカのほとんどの哲学科では分析哲学系が多数派を占めているが、The New Schoolではフランス現代思想に至るまでのヨーロッパ哲学が盛んで、とりわけフランクフルト学派の批判理論研究では有名である。現在は、レヴィナス研究で知られるサイモン・クリッチリー、政治哲学研究のナンシー・フレイザー、批評理論研究のリチャード・バーンスタインなどが教鞭をとっている。また、A・シュッツの業績を記念して現象学研究のために「フッサール資料館」/が、H・アレントの業績を保管するために「ハンナ・アレント・センター」が哲学科には設置されている。
(現在の花形はデザイン学科)
新学期第一週目に開催された上映会は木曜夜の定期的な哲学科コロキウムの枠で実施され、約25人程度が集まった。サイモン・クリッチリー氏とゼッド・アダム氏に相手をしていただいた討論会では、アメリカとフランスの高等教育制度の相違を追加説明するなかでいくつもの質問を受けた。
「学生と教師の関係は映画では描かれていないが、デリダは両者のいかなる関係を理想としていたのか」「ディレクターの選抜試験は本当にうまく機能しているのか」など。「このネット社会において、大学とは何か。クリッチリー氏の講義を授業料を払ってNew Schoolで聞くことと、YOUTUBEで彼の講義を無料で自宅で聞くことの違いは?」とやや挑発的な説明をしたせいか、大学の存在意義の議論が盛り上がった。
(サイモン・クリッチリー氏)
かつて国際哲学コレージュのディレクターを務めたこともあるクリッチリー氏は、その経験から3年ごとに人選がなされるコレージュの一貫性をどう確保するのか、あくまでもフランスに拠点のあるコレージュの国際性をどう考えるのか、などについてコメントした。
アメリカでの初めての催事なので大変緊張していたが、初回を何とか無事に事を終えることができた。後の日程も手抜かりのないように、イベントをひとつずつ終わらせていきたい。
(廊下の片隅で開催された懇親会)
メールのやりとりだけでこのような催事を開催していただいたクリッチリー氏とアダム氏には感謝する次第である。また、準備に協力していただいた同校出身のナヴェ・フルマー氏にも謝意を表わしたい。
〈参考文献〉
Peter M. Rutkoff, William B. Scott, New School: a history of the New School for Social Research, Free Press, 1986.
Claus-Dieter Krohn, Intellectuals in Exile: Refugee Scholars and the New School for Social Research, Univ. of Massachusetts, 1993.
(文責:西山雄二)