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【UTCP Juventus】森田 團

2009.08.18 森田團, UTCP Juventus

 2009年のUTCP Juventus、第6回は特任研究員の森田 團が担当する。

 専門は哲学・ドイツ思想史です。いままで主要な研究対象としてヴァルター・ベンヤミンの思想に取り組んできました。その成果は学位論文にまとめています。そこではベンヤミンの思想が一貫して問題にしてきたイメージと言語、そして神話と歴史をめぐる思考を、「媒質」の概念を手掛りに、同時代の哲学者たちの関係を踏まえながら(とりわけエルンスト・カッシーラーとルートヴィヒ・クラーゲス)、包括的に究明することを試みています。

 現在取り組んでいるのは、最広義における「生」の概念を、生の哲学のみならず、ヘーゲル以後、第二次世界大戦に到るまでの哲学の言説を広く考慮に入れながら包括的に究明することです。現在、アガンベンがフーコーやアーレントに基づいて再び問いに付している生が問題として構成されたのは、まさにこの時代においてであり、その諸前提を歴史的に問うことで、いま再び生を問うことの意義を深めつつ明らかにしたいのです。その際、一部は博士論文で取り組んだ問題の発展でもあるのですが、次の四つのテーマに重点的に取り組みたいと考えています(部分的には論文、学会発表、UTCPの短期教育プログラムなどですでに着手しているテーマもあります)。すなわち、1. イメージと神話の哲学(生と世界との根源的な関係)、2. 歴史哲学(生と歴史的世界との関係)、3. 〈悲劇的なもの〉の哲学(生の美学、生の倫理の源泉としてのギリシア悲劇の再発見)、4. 共生の政治哲学(生と共同性、ないし政治性との根源的関係)という四つのテーマです。

 1. イメージと神話の哲学:神話的思考や神話的意識を生じせしめる基盤は言語やロゴス以前のイメージに支配された体験であると考えることができます。このイメージ体験は、前世紀初頭の哲学、宗教学、神話学、精神分析学などで主要な論究の対象となりました。ここではイメージについての原理的な考察(とりわけクラーゲスのそれ)から出発しながら、当時の言説にも広く目をくばりつつ、イメージと生の連関を究明したいと思っています。

 2. 歴史哲学と想像力:ディルタイ以降の歴史認識論において、歴史が根本的にはある種の想起の作業として捉えられていることに注目し、十九世紀末から二十世紀初頭のドイツにおける歴史哲学の試みを、想起のうちに密かに働いている思われる想像力の作用から解釈することが第二のテーマです。そのとき課題となるのは、想像力がいかに歴史的認識にかかわるのかを、認識論的に明らかにすること、また過去のファンタジーとしても捉えられる神話と歴史との関係を問うこと、また想像力が歴史哲学の密かな前提となっている終末論の観念と本質的に連繋していることをあらわにすることです。またドイツの哲学者たちと並行して、高山岩男や高坂正顕などの歴史哲学を読み解くことによって、日本で展開された独特の歴史哲学的な思考を明らかすることにも最近着手しています。

 以上二つのテーマの関係については、『いま、哲学とはなにか』(小林康夫編・ 未來社 2006年)に収録されている「「哲学」における「過去」と「未来」――「いま、哲学とはなにか」という問いについての予備的考察」において少し詳しく展開しています。

 3. 悲劇的なものの哲学:悲劇的なものは、ドイツ観念論では、倫理的な問題(運命からの解放のための行為)として話題にされましたが、十九世紀半ば以降には美学的な領域(カタルシスなどの感情)において盛んに議論されることになります(ゾルガー、フィッシャー、フォルケルト、リップスなど)。そして二十世紀初頭になると再び倫理的な問題として悲劇的なものが重要視されることになる(ルカーチ、ブロッホ、ベンヤミン、ローゼンツヴァイク)。とりわけ、歴史哲学を自らの思考の核心に秘めた哲学者たちがことごとくギリシア悲劇を論じるのはなぜなのか。個々の哲学者の歴史哲学とギリシア悲劇解釈との関係を個別的に問うことと並行して、とりわけ以下の二つのテーマについて、ここでは重点的に取り組みたいと考えています。
 a. 予型論と歴史哲学との関係:ヘーゲル、シェリングを経て、ヨルクにおいて新たな展開を見せるギリシア悲劇解釈には、予型論的な思考(悲劇の英雄はキリストの予型である)が隠れていますが、この思考のタイプは、二十世紀初頭のユダヤ系の哲学者たちに秘かに受け継がれているように思われる。歴史哲学と予型論との関係の起源を探ることによって、歴史認識の在り方ひとつの基盤を明らかにしたいと考えています。
 b. 悲劇的なものの美学的解釈:そもそも芸術の哲学として構想されたヘーゲルの美学の根本洞察は、美の歴史性でした。この歴史性の認識は十九世紀には後景に退きますが、逆に純粋な概念の運動として、美から芸術カテゴリーを演繹しようとしたその後の美学は、美学の根本的カテゴリー(美、崇高、喜劇的なものなど)の連関を究明しようとしました。たとえば、フィッシャーにおいて、美と崇高(悲劇的なものに密接に関わる)は、対立するものではなく、美の弁証法的な展開において現われるものとして捉えられている。このような美から崇高への移行の認識は、二十世紀において再び、その移行のプロセスそのものを歴史的に捉え直すことを準備したように思われます。言い換えれば、美から崇高への移行が、歴史的必然を表現していると解釈されるわけです。二十世紀の歴史哲学と十九世紀の美学との関係は、いまだほとんど手をつけられていないテーマであり、これに着手することによって、いままでは明らかにされてこなかったドイツの歴史哲学の新たな側面を見出したいと考えています。
 以上二つの個別テーマの研究を通じて、悲劇的なものが近代においてさまざまなかたちで問い直されることになったのはなぜなのかという問いに最終的には答えるつもりです。

 4. 共生の政治哲学:生は根本的に共生的である。この点においては自然と文化との区別は存在しない。では生の共生性は、いつどこでいかにして生の共同性として、政治的なものとして現われることになるのだろうか。このことを思考するための出発点として、生の共同体について極めて独創的な思考を展開したエーリッヒ・ウンガーの哲学をひとつの出発点としながら、政治的なものの〈原光景〉を探ることで、同時にこの(政治的)共同性がいかに力(あるいは暴力)と根本的に結び付いているのかを、とりわけ二十世紀初頭の哲学者たちを参照しながら明らかにすることが第四のテーマです。ウンガーは、生の自然的な共生性でも、政治的な共同性でもない第三の中間領域に両者の起源を求めているのですが、まさにそこで問題となるのが、共同体の中心としての神(宗教)であり、力(の結集)でした。すなわち、ここで問題となるのは生と政治、生と宗教、生と力(暴力)との根源的な関係ということになります。

 実は、以上の問題を包括するものとして〈歴史哲学〉そのものを再構想するというのが最終的な目論みです。歴史哲学とは、ここでは歴史とは何かと問い、歴史の行程を論理的に把握し、再構成する試みというよりもむしろ、「生」を解釈する枠組み、あるいは「生」に意味を付与するような枠組みであると考えられています。そして、ここで構想されているのは、まさにこの解釈と意味付与の仕方の歴史を再検討する試みをも包括するような〈歴史哲学〉なのです。
 歴史哲学的な思考は、つねに不可逆的な時間という考え方――これは本来ユダヤ教に震源するものです――を前提していますが、自らの位置確定という発想に関しては、古代ギリシアにおけるコスモスにおける自己への問い、言い換えれば、コスモスにおける人間の位置の問いを引き受けています。自ら自身の生を了解しようとすること、私たちは誰かと問うことは、古来より哲学の根本的問いでしたが、このような二つの伝統を内的に統合しようとした歴史哲学な思考(おそらく一世紀から四世紀までの哲学にその萌芽が見られる)こそが、自らの生の位置を確定する試みを引き受けてきたように思われます。この試み自身の歴史を辿りながら、生を原理的に解釈すること、この両者への取り組みの具体的なかたちが、上の四つのテーマにほかなりません。

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