【UTCP Juventus】平倉圭
映画・近現代美術の分析と知覚論の研究をしています。今年6月に博士論文「ジャン=リュック・ゴダール論――編集/ミキシングによる思考」の審査に通過し、現在出版の準備をすすめています。過去の仕事は、昨年のUTCP Juventusで書きました。ここでは現在の関心を。
私の博士論文の理論的課題は、映画経験の「認識論的不確定性」を映画理論の内部に位置づけることにあります。人間の知覚はたえず確率的に揺れ動いており、かつたえず忘却にさらされている。このことは映画を研究する者にとって、「何も見逃し/聴き逃してはならない」という映画研究の規範(=現前性の規範)に従うことの困難を意味しています。
この困難を解くにあたって私が採ったのは二重の方法論です。第一に、ゴダールの映画を擬似的に構成された「編集台」で分析することによって、映画研究の「解像度」を急速にあげること。第二に、「解像度」をあげることによってより危機的な問題として現れてくる知覚の「不確定性」を、映画経験の核心をなすものとして扱い、それを理論の内部に構造的に回帰させること。そこから、「失認的非理論(a-theorism)」と私が名づける実践をパフォーマティヴに立ち上げることを博士論文では試みました。
この不確定性の問題は、私にとって、狭義の映画研究を超える意味合いをもっています。
現在関心を持っているのは、「実験芸術学」、そして「動物とのコミュニケーション」の問題です。
1. 実験芸術学
V.S.ラマチャンドランのよく知られた実験に、ダミーハンドが自分の手のように感じられるというものがあります。その発展版にテーブルが自分の手のように感じられるという実験があり、非常勤の講義の中で学生たちにやらせると、おもしろいことに(当然?)、うまくいく学生とうまくいかない学生が現れる。たいていの心理学実験は、「群れ」としての被験者の反応に統計操作をかけることで「ひとつ」の有意な結果を切り出し、私たちはその実験結果だけを受け取るわけですが、実際の実験現場では、「群れ」は各個体の来歴を織り込みながら、確率的、かつ度合い的な反応を返すものとして現れてくる。しかも繰り返し「練習」すると、身体に変化が起きて反応が変わってくる。このことは、作品経験の潜在性をめぐる芸術学の根本問題に触れています。
(講義で使用した自作ダミーハンド(豚皮製)。使ってみると造形がまずすぎて(!)、テーブルを使うほうがうまくいく。こういう造形の差異の効果も芸術学の実践にかかわる問題。)
UTCPでもレクチャーをおこなったJ.J.プリンツ氏の「実験哲学」は、道徳の問題を確率的な現れとして扱っています。同様に、芸術の問題を確率的な現れとして扱う「実験芸術学」というものを構想することができるのではないか。それは芸術学をカントからヒュームに差し戻すことを意味します。「群れ」の確率的現れにおいて、芸術経験の潜在性と、芸術による知覚の変化可能性の問題を考えてみたい、というのが現在の理論的関心です。
その最初の切り口――にできるかどうかまだ分かりませんが、8月29日、京都大学岡田温司先生研究室主催でおこなわれるフォーラム、「イメージ(論)の臨界[5]:感覚の越境と形象化(不)可能性」において、「地層とダイアグラム――ロバート・スミッソンの「映画」」という発表をおこないます。ロバート・スミッソンの映画《スパイラル・ジェッティ》(1970)と批評的テキスト「映画的アトピア」(1971)の内在的読解を通して、映画の「忘却」と「群れ」の問題を考察する試みです。ぜひご来聴ください。
(「映画的アトピア」分析ダイアグラム。作成中……!)
「イメージ(論)の臨界[5]:感覚の越境と形象化(不)可能性」
日時:2009年8月29日(土)13時より
場所:京都大学大学院人間・環境学研究科棟 地階B23室
(地図:http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/map6r_ys.htm)
主催:科学研究費萌芽研究「美術史の脱構築と再構築」(代表:岡田温司)
問い合わせ:京都大学 岡田研究室075-753-6546
事前申込:不要 お気軽にご来聴ください。
詳細:/events/2009/08/post_61/
2. 動物とのコミュニケーション
もうひとつ、関心のある「動物とのコミュニケーション」については、昨年、東京国立近代美術館でおこなわれたシンポジウム「批評の現在」において、「ミミズと話す」というタイトルの発表として初めて展開しました。そこで私がおこなったのは、宮沢賢治の詩篇「蠕虫舞手」を、人工知能/心の哲学の古典的論文であるアラン・チューリングの「計算機械と知能」とジョン・サールの「心・脳・プログラム」を通して読むことです。動物と話すことについての宮沢の思考のなかには、単純なアニミズムには還元できない、認識論と存在論の境界の不確定な動揺の自覚に関わるものが多くあります。それはチューリングが定式化した人工知能の可能性の問題と正確に重なり合います。ここでも問題となるのは認識の不確定性です。
8月25日に発売される『現代思想』9月号のなかでは、この問題を「群れ」とのコミュニケーションへと拡張する小文を書いています。タイトルは「烏の鳴き声を真似る」。カラスの「群れ」と話すことの不確定な可能性についてです。よろしければ、ご一読ください。
(一昨日ツバキの葉にみつけたチャドクガの幼虫。頭をずらっと揃え、蠕動リズムを同期させてスキャンするように葉を食べていく。無数の毒針毛があるので、この「群れ」に対して私がとれるコミュニケーションは多くはない。葉から振り落とすといっせいに糸を吐く。)
(ついでに。昨日みつけたカマキリの抜け殻。こんなに複雑な形をどうしてひとつづきの面として抜くことができるのか?? 生物の形態の問題もこれから時間をかけて研究していきたい課題です。)
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