【報告】ワークショップ「人間と動物の共生」
2009年7月31日、『現代思想』誌2009年7月号(特集=人間/動物の分割線)を基本文献として、UTCPワークショップ「人間と動物の共生」が開催された(司会:西山雄二)。夏休み前のUTCP最後のイベントである。
今回の雑誌特集は日本で初めての哲学的動物論特集である。人間/動物の分割線に関しては、1970年代における「動物の権利」運動において、あるいは、脳死や安楽死などの生命倫理の文脈で議論がなされてきた。いわば、「動物の人間化」(動物も快苦を感じるがゆえに人格的な権利を有する)と「人間の動物化」(極限的な身体状態において人間はもはや人間とはいえず、たんなる動物に等しい)との交錯が、人間/動物をめぐる思考の掛金となるのだ。従来の哲学的動物論は動物を人間の欠如態として規定する向きがあった。人間は言葉をもつが、動物は叫びしか発しない。人間は政治的共同体を構成するが、動物は群れているだけ……等々。しかし、1960年代以降、近代的な人間中心主義が根底的に批判されるなかで、非人間的なものの位相が動物の形象との関係において問われているのである。
まず、串田純一(東京大学)は、発表「動物と人間の脱抑止、あるいは護られることなく護られること」において、おもにハイデガーの動物論を展開した。ハイデガーは動物あるいは生物一般を「自然という全体としての存在者のただなかで脱抑止の連関に捉われているもの」と規定する。動物はすでにもろもろの活動の能力を可能性を抑止しているが、外的な連環のなかで抑止解除されて能力を発揮する(例えば、太陽の位置に呼応して飛ぶミツバチ)。これに対して、人間は自然のただなかで時間地平を形成し、また、自然環境に潜在する諸可能性を配置しつつ、その抑止と脱抑止を全体として方向づけ秩序づけることで世界を超越する。
さらに串田は、ハイデガー、ドゥルーズ、デリダの人間/動物論に共通する地平として、「抑止/脱抑止」と「護られること/護られていないこと」あるいは「護ること/護られないこと」を提示した。ドゥルーズは「愚かに存在することを抑止する特有の諸形式によって、動物は護られている」と言う。ハイデガーはリルケを注釈して、人間と動物を「護られていない存在」とし、人間は「存在の真理の見守りのうちへと呼ばれている」とする。デリダは、針で身を護りつつ自動車に轢かれるハリネズミを例にとり、護りと危険の両義性から詩の問題を論じる。串田はこうして、人間/動物論が「護り」の能動/受動および肯定/否定をめぐって、詩的言語の問題と連関することを示唆し、本ワークショップの基本的な地平を開いた。
次に、千葉雅也(UTCP)は、発表「ドゥルーズと動物」において、ドゥルーズの動物論を生成変化の過程のなかで説明した。『千のプラトー』で、動物への生成変化は「女性と子供(=少女)」の後に、「知覚しえぬもの」の手前に位置づけられる。まず、「少女への生成変化」は到達不可能なひとつの外部性に拠る全体性(男性)とそうした外部性に拠らない複数性(女性)から解放されて、存在論的に複数の外部性としての物自体によって触発される心を生態論的に構成する。また、「知覚しえぬものへの生成変化」は、脳において知覚と欲望を直接結びつける「麻薬」として表現される。これは複数の他者性を摂取しつつ、この麻薬的な欲望のアディクション(中毒=依存)を自己享楽し続けるというきわめて唯物論的な生成変化である。ただし、こうした自己享楽のアディクションは硬直的なものではなく、一定の生態環境においてつねに別の身体へと変化する。それはいわば、硬直性と柔軟性が脱構築される可塑的なプロセスであり、千葉はこの過程を「トランスアディクション」と呼称するのである。
そして、宮﨑裕助(新潟大学)は発表「デリダと動物」において、デリダの動物愛好家的な身振りへの戸惑いから語り始める。宮崎は晩年のデリダの動物擁護論を奇妙な「理論的退行」としつつ、ここにいかなる戦略的掛け金があるのかと問う。デリダの動物論は、現代の生政治の文脈(生命倫理学や動物倫理学、「歴史の終わり」以後のポストヒューマン論や政治論など)のなかで読解されるべきものだろう。宮崎は脱構築の生政治分析のために、「動物=パッション」と「動物=エクリチュール」という方向性を示す。まず、デリダ自身、バスルームで愛猫に裸の姿を見つめられたときの「恥ずかしさ」を告白しているが、ここからは存在論的な受苦の感情に基づく動物論的なエステティクスが導き出される。また、デリダは「動物‐語(l’animot)」と表現し、動物を決定不可能なエクリチュール的次元に位置づける。つまり、人間/動物という対立構造、人間的な意味にも還元されえない、不可能なものの剰余として「動物」が指示されるのである。
発表後、郷原佳以(関東学院大学)がコメントを加えた。ハイデガー、ドゥルーズ、デリダの人間/動物論には情動や情熱=受苦の主題が共通しており、この論点は展開される余地があるだろう。デリダに関して言えば、動物の問題はフィクションと深く関係する。デリダはカフカやツェラン、キルケゴールを引きながら聖書に登場する動物(供犠に捧げられる雄羊)の虚構的な読み換えをおこなうことで、他者を他者としてその単独性において担うことを実践的に提示しようとする。その意味で、デリダには実は「動物論」は存在せず、テクストを通じた複数の単独的な動物たちの読み換え作業しかない。それゆえ、デリダによる「動物の語をめぐる思考」は、初期から一貫する他者論のひとつにすぎないと言える。
質疑応答の時間には、今回の執筆者・黄鎬徳さんから「人間/動物の分割線を読み換えるための歴史的文脈とは何か」という問いが出された。今回の特集ではナチスの動物愛護および優生思想、日本による朝鮮の植民地支配などが主題化されているが、人間/動物の問い直しは近代の極限の文脈に関わっている。他にも、「動物は群れをなして生きているが、動物の複数的な単独性という論点は、動物の個体性と群れの集団性といかに関係するのか」「人間と動物のみならず、植物との差異を、人間/動物/植物の生政治をどのように考えればよいのか」といった問題提起がなされた。
今回のワークショップは雑誌『現代思想』の発刊と連動した企画だった。単行書とは異なり、定期的な期限がある雑誌にはワーク・イン・プログレス的な要素と勢いがあり、雑誌の成功・不成功はこの勢いにかかっている。今回は寄稿した若い執筆者が集い、雑誌の勢いがそのままイベントの律動と熱気としてうまく反映されたように思う。今回の特集を担当され、ワークショップにもつきあっていただいた青土社編集部の栗原一樹氏に感謝する次第である。
(文責:西山雄二)