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【報告】「文の秩序——漢字的秩序空間に関する一試論」

2009.08.20 井戸美里, セミナー・講演会

6月11日(木)に中谷一氏(マギル大学、美術史・コミュニケーションスタディーズ学科)によりUTCPワークショップ「文の秩序——漢字的秩序空間に関する一試論」が行われた。また、コメンテータとして土屋昌明氏(専修大学)をお招きした。中谷氏による1時間の発表、土屋氏による20分のコメントの後、活発な議論が行われた。

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このワークショップで中谷氏は文字をめぐる現代的な思惟の例として、メディア論における文字の扱いから構造主義、ポスト構造主義の文字論に至るまでの流れを整理した。メディア論では、マクルーハンが問題にしてきた文字の持つ認識論的な側面(コミュニケーション以上に書くこと・語ること固有の文化における)を指摘し、レヴィストロースからデリダなど構造主義からポスト構造主義においては、文字は言語に隣接するも回収されつくされない、言語の外部にあるものとして捉えなおすことで、近代言語論の自明性を問題化するという試みのもと、漢字はこれまでもある種の特権性を持って語られてきた、という。言語に還元不能なものとしての漢字(漢字はデリダによれば音声中心主義に回収されない、言語の外部にある文字らしい文字)これらをどのように組み替えられるか、という試み。中谷氏によれば、これらの試みはいずれも、文字を積極的に評価しなおそうという行為として捉えられるものの、現代思想においても「外部としての文字」が制度化してしまっているのではないか、と指摘する。つまり、西洋近代的な言語をめぐる思惟とは、言語と文字をめぐる布置においてみとめられ、これ自体が近代的な言語の思惟である。中谷氏の主張は、漢字とはこのような布置に回収されえるものではなく、ほかの秩序のなかで捉えられるのではないか、というものである。

さらに、中谷氏は文字というものが、「語られたもの」であるという前提に疑問を投げかける。言語学者により漢字の基本概念として「表意文字(イデオグラム)」―漢字とアルファベットの違いを強調―ではなく、「表語(ロゴグラム)」―漢字が対応するのは「意」でなく「語」―、であるという議論がこれまでも行われてきているものの、この議論も語というものが語られたものとしてあるという前提は変わらない。つまり、音+形+意ということに文字の実体があると想定するならば、文字が書かれたものとして先にあると考えることもできるのではないか、ということである。そのことを如実に表すのは、中国の漢字の起源神話で「蒼頡神話」である。蒼頡は、鳥の足跡を見て漢字を作ったとされるが、ここには、漢字という文字が、語られたものとは無関係のものとしてその起源を提示している。それは、自然の痕跡の図像的な秩序とであると中谷氏は指摘する。また、この起源神話が、伏義の易起源説の反復であることにも注意されたい。易起源説自体、図形がテキスト的なものとして聖典化される、これが文字の起源的なものであるというような言説である。つまり、漢字というのは言語に従属するものというより、自然に内在する図像的な秩序の展開形として考えられるものであり、中谷氏はこれを「文の秩序」(graphic regime)と呼ぶ。

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こうした展開形として、現代アートや近代中国の文字改革の例を指摘する。現代アート作品のなかで文字に執拗にこだわる作家を紹介する。ある作品は、王義之の「蘭亭序」を写しているかと思えば、同じ場所に何度も書くため真っ黒になるというもの。これは、写すことを通して学ぶという中国の伝統的な文字の学習法のパロディーであり、ある種の書の自己消去という形を示しているという。これまでは、こうした文字を使ったパロディー作品、近代的な文字批判―、伝統権力としての漢字の批判―のなかで捉えられてきた。しかし、こうした字への執拗な関心は、漢字を批判しようとするも越えられないトラウマのようなもの、強迫的な両義性がある。文字改革では、今は発音記号として使用されているピンインが、もとは、漢字をおきかえるために考案されたものであり、発音記号ではなく文字であったこともこうした両義的な感性を象徴している。

議論の締めくくりとして、80年以来現代アートの旗手として、現在ではNYで活躍する徐冰の作品「天書」を挙げる。天から降りてくるような軸装の本の形をした「天書」のなかに、文字を記すタイポグラフィー作品である。ただし、何千も彫られた文字はどの字も「偽文字」である。これは文字が「文字批判」というより、「偽文字」であるが、語に対応していないにもかかわらず意味を表わしてしまいそうである、という点が重要である。「漢字らしさ」(形態的な安定性)をあえてデザインし、「意味ありげ」に見せることは、これは文字への批判どころか、逆に、自然に立ちあがってくるような意味とか音を形に内在させようとしているような行為と解釈することができるのではないかと指摘する。つまり、この作品は、タイトル自体が道教に基づく「天書」であり、インスタレーションとして見ても「天・地・人」のコスモロジーの全体が示されている。これは文字が天から降りてきている啓示(自然の書として)、それがみんなに読めるようなものとして示されているものとしてしての文字であるという道教における文字の在り方を具現化しており、文の事実的な宇宙を作品化していると考えられるのである。こうした作品のなかに、「文の秩序」すなわち漢字のトラウマの連続性を指摘するのである。

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次いで、コメンテータの土屋氏は、天書について解説を中心とした議論を提議した。天書はもちろん、こうした背景に、道教というものが中国文化において非常に重要な存在であるということをもっと踏まえる必要がある。また同時に、老子の有名な言葉として、文字として書かれるものは本当のものではない、という点にも留意する必要がある。天書というのは道の顕現として現れるもので自然に空中に現れてくるものである。また土屋氏の論点として重要なことは、天書が必ず音を持っている、ということであり、道教の文字観のなかでは両方重要であるという点である。さらに、道教の思想では文字が練炭されて現れるという考え方があり、このことは必ず翻訳が必要であることを示している。

また、会場からは、文の秩序というより文の磁場、つまり、ある痕跡を文字化しようとするベクトルの問題として考えたほうがわかりやすいのではという意見があった。翻訳もある形をどう文字化するかという動きであり、読もうとする動きがなによりも最優先されることが重要なのではないかという貴重な意見があった。 (文責:井戸美里)

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