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中期教育プログラム「哲学としての現代中国」最終報告会「哲学・翻訳・救済」

2009.07.21 中島隆博, 千葉雅也, 井戸美里, 高榮蘭, 西山雄二, 哲学としての現代中国

2009年7月7日、中島隆博の中期教育プログラム「哲学としての現代中国」の最終報告会「哲学・翻訳・救済」がおこなわれた(司会:井戸美里)。報告会は、中島のUTCPでの教育研究活動の成果が哲学のアクチャリティという課題のもとに凝縮された近著『哲学』(岩波書店、2009年)の合評会という形でなされた。

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まず、西山雄二が、報告「旅の旅――「哲学とは何か」という問いの光景」をおこなった。『哲学』は、中島がパリ、シカゴ、台北と移動するなかで、ほぼ一ヶ月に及ぶ旅の空の下で書かれた。また、本書のいくつかの部分は海外の国際会議で発表され、海外の研究者からの応答を受けたものである。中島は、すでに旅の経験を経ているテクスト群を旅の経験のなかで書き直したことになる。旅の日記やエッセイはありふれているのだが、「旅の旅」の経験が深く刻まれた哲学的テクストは稀であるだろう。

中島は、ドゥルーズを援用しつつ、「哲学とは哲学者が尺度なしに単独で概念を創造すること」であり、この概念はつねに他の哲学者の呼びかけに対する応答を含むとする。また、哲学は個人的な営みではなく、歴史的な起源の一種の伝承や反復において、その都度唯一の仕方で始められるとする。万人が哲学への権利を有しているのだが、しかし、その権利が十全に開花するのは、その可能性の条件が整えられているからである。

他者との出会いと交流(旅)を志向する中島が拒絶するのは、旅を抑圧・禁圧する思想、偽の旅を誘発する思想である。これらの思想は自己/他者、固有なもの/非固有なもの、自国/他国といった二分法を固着させることで、思考の流動性を阻害するのである。古典古代と現代が直結され、都合のよい過去のみが利用される「古典回帰の現象」。一つの主体を無化することで、他の諸主体を包む「世界」と化し、「皇道」を称揚する「西田幾多郎の否定政治学」。植民地主義的状況において他の土地に入植する者の暴力性。隣人愛という「近さ」に傾斜するレヴィナスの主体性の限界など……。

中島はベンヤミンの翻訳論を参照しつつ、翻訳と救済を哲学の使命として語る。翻訳困難な、さらには翻訳不可能な概念の翻訳を通じて、自国語なるものを揺さぶる営みが哲学なのである。事物に名を与えること、特定の言語からこの名を解放するという二重の救済こそが哲学の使命にほかならない。

発表に対して中島は次のように応答した。「哲学はギリシアや中国のような内在的な世界で生起する。だが、そうした内在性のない場において哲学が見出されるためには、何らかの介入によって内在性を生じさせる必要があるのではないか。哲学という古名は単独では保持されず、あくまでも他なるものと交流することで刷新され続ける。哲学が他者の応答に曝されるために、私的なものと公的なものをつなぐ地点で何らかの制度を実践する必要がある。」(以上、文責:西山雄二)

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 さて高榮蘭は、中島の『哲学』を、そのまま、文学について語ったものとして読むという「誤読」を企てた。それは実際、十分に可能なのである。高によれば、近代において文学は、差別と戦争を養分とし、特定の共同体を競り上げてきた。しかし同時に、文学とはつねに――哲学と同じように――マスター・ナラティヴの威圧へと抗する他者性の騒めきに付き添うものである。複数の言語、歴史性のあいだにおいて翻訳的共生を探りつづける文学。他者へと身を開き、他者の身を歓待する方法を、たえず再発明しつづける文学。李良枝の『由熙』が生々しく描くような、自国語と外国語のどちらにも休らえず、痙攣しつづける実存へと向かうこと。その苦しみのリアリティの襞を――国家間の大きなコンフリクトへと回収せずに――証言するのが、文学そして哲学の使命なのである。のみならず高は、仮構されたひとすじの歴史性をその内から攪乱する「不敬文学」にちょうど対応する、「不敬哲学」と呼びうるものも、ありうるのではないかと挑発する。
 高によれば、自分は、中島のプログラムにおいて、決して韓国代表としては扱われなかったという──国籍もそしてジャンルも横断し、宙づりの異邦性において思考の「内在平面」を異化すること、それが中島たちの希望であった。

 会場からの質問について。ひとつは、現在をいかに救済するのかという問い。これに対して中島は、あるしかたで過去に関わらなければ、現在の救済はありえないと答える。複数の歴史性を引き受けなおすことが、いまここの救済そのものなのである。そして中島によれば、救済とは、言葉を奪われている者に、言葉を返すことである。マスター・ナラティヴに威圧されて語れずにいる者、口ごもるしかない者へと耳を開き、その声にあらためて権利を与えることである。また最後に、中島がいう哲学が、きわめて反自然的なものであることが確認された。旅につぐ旅においてコミュニケーションの摩擦に身をさらすことは、自然なホメオスタシスを保つことの正反対だからである。自然を乱調させる哲学――だがそれは、別のしかたでの自然、その住まいかた(エコノミー)を発明する試みなのである。(以上、文責:千葉雅也)

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