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【報告】「世俗化・宗教・国家」セッション9「宗教と近代―西田幾多郎を通して」

2009.07.20 羽田正, 内藤まりこ, 世俗化・宗教・国家

7月6日、「共生のための国際哲学特別研究Ⅲ」第9回セミナーとして、本プログラムの今年度一人目の招聘研究者であるクリスチャン・ウル氏(ベルギー、ゲント大学)による講義「宗教と近代―西田幾多郎を通して」が行われた。

まず、ウル氏はゲント大学に所属する二つの機関の紋章を挙げる。

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哲学を専門とする学部の紋章が、ギリシャ風建築のファサードをモチーフとするのに対して、日本の言語と文化を扱う研究所では、毛筆で描かれた円の形をシンボルとする。ウル氏は、ギリシャ風建築のモチーフに、ギリシャを哲学の起源とし、この機関を哲学の系譜のなかに位置づける意図を読み取る。一方、日本研究所の紋章が禅、もしくは仏教を象徴化していることはいうまでもないが、ウル氏は、日本を特徴づけるさまざまな要素から、ほかでもない仏教が、日本を意味づける事象として選び取られることに注意を促す。さらに、一見何の繋がりもないかのようにみえるこれら二つの図像が、実はある共通の基盤の上で切り離しがたい関係を取り結んでいることを指摘するのである。それは、一方を西洋、他方を東洋として振り分けるような認識論を構成する基盤としてあり、二項対立的に振り分けられる諸要素はそれぞれが自立的に存在するというよりも、互いを以て成り立つような二律背反的な関係性にあるとする。つまり、日本を特徴づける事象として掲げられる仏教とは、西洋の哲学の系譜とは異なる東洋の知として召還されているのである。

続いて、ウル氏は、十九世紀後半の市場経済の発達のなかで、仏教が西洋とは異なる東洋を代表する文化的伝統として「発見」されたことを指摘し、西田幾多郎の哲学と仏教との関わりも、こうした歴史的・社会的文脈のなかに位置づけられるとする。興味深いのは、当時、西洋/東洋と同様に、形式/内容や、普遍性/個別性など、事象を二律背反的な関係性として認識する言説が生み出されたという点である。ここで、「宗教」が「科学」との対立において概念化されたことは看過できない事実としてあろう。また、西田哲学を有名にした『善の研究』は、主体と客体との未分化な段階を、純粋経験として捉えようとする試みであるが、ここにも主体と客体との二律背反的な関係性が前提とされているのである。もっとも、主/客以前の段階の究明それ自体は、西田に限ったことではなく、ハイデガーのような西洋の哲学者が取り組んだことでもあったという意味で、当時の哲学における世界的な現象であったのだ。

こうした視点に立って、ウル氏は西田の哲学を世界的な全体性のなかに位置づけようとする。西田は、純粋経験を主/客が確立すると同時に失われる段階として措定した。ウル氏は、西田がそうした失われた純粋経験を擬似的に体験させるとしたのが、「宗教」であったと論じる。ここに「宗教」は、主/客の対立を成り立たせる近代的認識の地平にありながら、それとは異なる認識を導く体験として概念化されたのである。

こうして宗教は、科学としての哲学とは異なるものとして、近代を批判する位置取りを与えられることになるのだが、ウル氏は、宗教が哲学との二律背反的な関係性として浮上したことを、西田の思想内部の問題としてではなく、西田を取り巻く世界規模での認識の枠組みの問題として捉えようとする。そうした世界的な全体性を確保するものこそが、資本主義であると論じるのである。ウル氏は、資本主義において、労働力がその交換価値を通して商品化される過程(物象化)に、二律背反の関係構造を見出し、それが労働のみならず、あらゆる社会の制度や認識の基盤として働くとする。すなわち、西田において見出された宗教/哲学や、哲学において概念化された主体/客体、さらには、東洋/西洋という枠組みに至るまで、これらの二律背反的認識を成り立たせる基盤には、個人の労働を、交換価値を通して客観的な商品形態へと変換する資本の論理が働いているのである。

このように、ウル氏は西田の思想と資本主義とを取り結ぶことで、宗教が哲学に対立する概念として立ち上げられた歴史的文脈を浮かび上がらせた。参加者との議論では、西田の純粋経験や自由の概念と資本主義との関わりが問われ、ウル氏のマルクス解釈の立場が確認されるなどした。西田幾多郎という哲学者の思想のなかに現れた「宗教」なるものが、当時から現在にいたるまでの日本社会の人々の「宗教」に対する認識とどのように関わるのかという問いは、本プログラムのテーマとウル氏の講義とがどのように接合するのかという観点から答えられるべきこととしてあろう。

そこで、改めて、本プログラムのテーマ「世俗化、宗教、国家」に立ち戻るならば、私たちはこれまで世俗化もしくは宗教を近代の国民国家との関わりから捉えてきた。近代の始まりを資本主義の成立にみるウル氏の論点をプログラムの問題関心に引きつけてみると、ウル氏が講義のなかで示したように、資本主義と宗教の成立とが結びつけられるとき、宗教は国民国家の単位を越えた、より高次のレベルにおいて語られるべき地平をもつはずである。その意味で、ウル氏の講義は、近代と宗教/世俗化との関わりにおいて新たな議論の可能性を開くものであるのではないか。ただ、そう考えると同時に疑問が浮かんでもくる。つまり、宗教が資本主義との関わりから、世界の全体性のなかで議論されるとき、宗教をめぐる言説の差異はどのようにして語りうるのだろうか。資本主義体制においては、特殊性は普遍性の対立項として現れるとして、そうした特殊論に陥ることなく、地域や時代において偏差としてあらわれる言説の差異をつぶさに捉え、それを全体性へと捉え返していく方法論こそが求められるのではないだろうか。

(文責:内藤まりこ)


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