【報告】共生のための国際哲学演習VII「哲学としての現代中国」
中期教育プログラム「哲学としての現代中国」では、張旭東先生による2回の連続セミナーに引き続き、戸坂潤について討論が行われました。
6月2日の授業では、ハリー・ハルトゥーニアンによる『近代による超克-戦間期日本の歴史・文化・共同体』の第三章「現在を知覚する」を取り上げ、特にハルトゥーニアンの戸坂潤の論述に注目して発表した。その後、戸坂潤の「風俗」への関心や「実際性actuality」という時間の問題化など、戸坂の歴史観の特異性と現代における戸坂の思想の意味と有効性をめぐって活発な議論が行われた。(発表、文責:東京大学修士課程 川坂和義)
6月9日は、Takeshi Kimotoの “Tosaka Jun and the Question of Technology”および中島隆博の戸坂潤論「時代に切線を引くには――戸坂潤、われらの同時代人」をテクストとして、前者には井出(表象文化論・修士課程)、後者には星野(表象文化論・博士課程)がそれぞれ応答し、その後全体で討議がなされた。Kimotoの論考は、戸坂の思考の中心的な問いのひとつである「技術」をめぐる議論であるが、井出は、ポスト・フォーディズムより以前に既に「非―物質的労働」(im-material labor)が提起されていた点に着目しつつも、むしろ「大衆知性」(general intellectual)に公共領域を開く可能性を見るべきではないかと提案した。一方、歴史意識・道徳・世界・民衆といった概念を通じた戸坂の思想をめぐる考察である中島の論考については、星野がベンヤミンの歴史哲学について触れ、戸坂との同時代性を指摘した。討議では、「民衆」の主体は誰なのか、また戸坂と我々は同じ問いを抱えているのか否かといった問題などが議論された。この問いは、次回以降の、戸坂が批判した和辻のテクストを討議する場に引き継がれるはずである。(文責:宇野瑞木)