【報告】張旭東連続セミナー
中期教育プログラム「哲学としての現代中国」では、丸山真男についてのセミナーに引き続き、張旭東先生による2回の連続セミナーが実施されました。
第1回目のセミナーは4月28日に行われた。"Forgetting As Memory: The Politics of Time and Experience in Lu Xun's Personal Recollections"というタイトルのもとこのセミナーでは、魯迅の記憶をめぐるあらゆる叙述を分析することを通して、西洋とは異なる東アジアの近代化の問題を議論するものであった。モダニストとしての魯迅の記憶の記述を読み直すことを通して、非西洋のモダニズムを再定義することを試みた。張先生によれば魯迅の記述における記憶には三つの層、構造が見られ、それら全てが互いに調和的な循環を繰り返しているとされる。
一つ目の記憶は、忘却することの不可能性というもので、自発的な記憶voluntary memoryであり、人間の経験や苦難などへ強制的に向けられた闇へのまなざしとも言えるものである。二つ目の記憶は、負荷や重みを持って自らの意志を超えて急に過去が引き戻されるような、プルーストの記述に見られるようなinvoluntary memoryであり、記憶しておくことの不可能性である。この構造において記憶は闇からのまなざしが自らのもとに回帰してくる。三つ目の記憶は、記憶の中の記憶memory in memorialであり復元不可能な記憶である。欠如や空虚といった実体のないものによって規定される魯迅の本質は他のモダニストとは異なるものだ。
魯迅の記述における記憶と忘却は、過去に対するさまざまな未来を描く可能性を開くものであり、それゆえ政治的、道徳的、存在論的な葛藤を含むものとなる。このような多層な時間、空間構造、弁証法的な記憶と忘却など、モダニストとしての魯迅の作品に見られる時間構造は、現代中国の歴史のすべての運動と連関しながら新・旧、東・西などの只中で停滞しているものである。(文責:井戸美里)
第2回目のセミナーは5月12日に"Ah Q and the Spectral Name of Modern China: Toward a Semiotics of Political Philosophy"というタイトルのもとで行われた。文学におけるモダニズムの問題を考える際、物語構造・形式及び表現の手法に注目する場合が多い。そのため、これまでの研究において、魯迅の『阿Q正伝』をモダニズムという言葉に接合させることへのためらいが多かったのは確かである。この講演は、『阿Q正伝』というテクストにモダニズムというキーワードを導入することによって、これまでの西洋モダニズムを軸とする文化批評の枠組みをずらし、非西洋におけるモダニズム実践の問題を相対化させたものである。
張旭東氏は、『阿Q正伝』に刻まれている物語言説の意味内容を、中国語読者がおかれている歴史的コンテクストだけを意識しながら読み解いた場合、ステレオタイプの解釈の回路に陥ってしまう危険性があると述べた。それを回避するため、彼は「阿Q」を記号としてとらえ、それが物語構図において、どのような機能を担っているのかに注目している。張氏による『阿Q正伝』再読という実践は、このテクストが、近代「中国」における社会的・歴史的変化のアレゴリーであるとともに、中国文明全体の意味や価値表現の「体系的混乱」に関するアレゴリーであることを明らかにしたものである。(文責:高榮蘭)
※使用されている写真は5月18日のシンポジウムのものです。