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【報告】アラン・ジュランヴィル「現代哲学の根本的な矛盾とその体現者カール・シュミット」

2009.06.18 原和之, 時代と無意識, セミナー・講演会

2009年5月11および13日、アラン・ジュランヴィル氏による連続講演「現代哲学の根本的な矛盾とその体現者カール・シュミット」が開かれた(司会:原和之)。

5月11日 第2回「現代哲学の根本的な矛盾とその体現者カール・シュミット」

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5月11日の講演は、2回の連続講演のうちの前半部であり、導入部ないし問題提起の役割を果たしていた。ジュランヴィル氏はまず、連続講演の結論ともいうべき大きなテーゼを不意に断言することから始める。すなわち、フロイトが発見し、これまで十分に語られ、批判にもさらされ続けてきた「無意識」という概念こそが、(ヘーゲルより後の)現代哲学が根本的にかかえている矛盾を解決できるというものである。こう断言した後に、ジュランヴィル氏は順序立てて――数学者然とした手つきで――論証にとりかかるわけだが、全2回の講演の前半部となる本講演の主眼は、「現代哲学が根本的にかかえている矛盾」がいかなるものかを提示することである。

ジュランヴィル氏は、まず現代哲学が不可避的にはらんでいる矛盾とは、「キルケゴール以来の実存の肯定」に由来するものだと述べる。では、「実存の肯定」とは何か。現代哲学において、実存とは何よりもまず<他者>(l’Autre)――<異なるもの>あるいは<他なるもの>――に対する関係であり、真理や同一性が自己ではなく<他者>によって根本的に保証されていることを指す。つまり、実存を肯定することは、ラカンやレヴィナスが明らかにしたように、根本的他律(hétéronomie)に、絶対的な<他者>の法あるいは<他者>という法に服従することを指すのである。この意味で、実存は宗教的な概念だといえる。そして、この根本的他律から、新たな自律(autonomie)が可能となる。この場合の自律とは、近代的主体が示す抽象的・普遍的・道徳的な自律ではなく、創造的・個人的・超道徳的な自律、つまり、作品=営み(œuvre)を通して自らに固有の法を与えるような自律である。したがって、それは政治的な概念だといえる。

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こうして現代哲学における「実存の肯定」からは、他律と自律という二つの帰結が引き出されるのだが、この二つの帰結は矛盾をきたすことになる。というのも、創造的自律をそれ自体として措定してしまえば、自己に固有の法を他者にも課すような、抽象的で普遍的な誤った自律が姿を現す。反対に、根本的他律をそれ自体として措定すれば、それは世界の秩序を保証し、あらゆる創造的な自律を阻止するような、社会的に宣言された、凡庸で誤った他律に堕してしまう。キルケゴールやローゼンツヴァイクは――キリスト教/ユダヤ教という大きな差異はあるものの――、いずれも創造的な自律について沈黙し、ただ根本的他律が啓示のうちに歴史的に到来すると考えたために、政治的次元を欠いた宗教的な実存思想を展開している。他方、マルクス(階級なき超人類)、ニーチェ(リビドーなき超人)、フッサール(無意識なき超意識)は、根本的他律について沈黙し、人間の創造的な自律に執着するあまり、歪んだ自律へと至っている。とりわけマルクスによって触発された(創造的自律を求める)政治的行動は、哲学をイデオロギーへと歪曲する反資本主義革命のまやかしの企てであるばかりか、全体主義的な狂気の展開によってしるしづけられている。そして、このような政治的行動は、最終的には、ホロコーストへと至るというのがジュランヴィル氏の見解である。なぜなら、ユダヤ民族は、歴史上、何にもまして根本的他律を受け入れた民族であり、そうである以上、(歪んだ)創造的自律を求める社会にとっては、厄介な証人として排除されなければならないからである。真の他律を唱えれば、新たな自律の可能性が排除され、その結果、政治的帰結へと至らない歪んだ他律が生まれ、真の自律を唱えれば、根本的他律は排除され、その結果、不可避的に歪んだ自律が生まれてしまう。「実存の肯定」が導く現代哲学の根本的な矛盾というのは、このような事態を指している。

ジュランヴィル氏によれば、現代哲学のこの矛盾を見事なまでに体現しているのはカール・シュミットである。シュミットは、一方で、「まったき他者」としての神が最終的に堕落した人間を救済するというヴィジョンを措定し、合理的に正しい世界を設立するための政治的視点を欠いたまま、最後の審判の直前に生じるアンチキリストの到来を遅らせるものとしての「カテコン(katechon)」を信じている。つまり、創造的な自律(現実の合理的社会の形成)の視点を排除しているのである。他方で、政治思想家としてのシュミットは「決断」を法権利の原理とするが、この「決断」は純粋に内的・個人的なものではなく、社会的に宣言された自律であり、敵としての<他者>を排除することで成立するフィクションとしての自律(国民の同一性)である。つまり、そこでは根本的他律という視点が沈黙を課されているのである。シュミットの反ユダヤ主義はこの立場から生まれている。なぜなら、ユダヤ民族は歴史的に見て根本的他律を受け入れ、あらゆる同一性を疑問に付してきた民族だからであり、それゆえにユダヤ民族はドイツ民族の同一性(というフィクション)を脅かすからである。この指摘に続いて、ジュランヴィル氏はシュミット自身がこの矛盾を前にして麻痺状態にあることを、ニコラウス・ゾンバルトの論を批判的に参照しつつ、シュミットのハムレット論のなかに見出す。

現代哲学が抱え込む矛盾を、根本的他律/創造的自律という図式で明晰にえぐりだしたジュランヴィル氏の手腕は鮮やかだといえるだろう。しかし、講演のなかで一刀両断に整理された哲学者たち(キルケゴール、ニーチェ、フッサール、そしてとりわけマルクス)が、果たして完全にジュランヴィル氏の提起した図式通りに収まるかどうかは――その判断は報告者の手に大いに余ることではあるが――いささか心もとない。いずれにせよ、これは連続講演の前半部でしかなく、後半部の展開と合わせて、提示された問題を検討していく必要があるだろう。

(文責:桑田光平)


5月13日 第3回「現代思想の矛盾に対する解決策としての無意識」

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「〈他者〉 l'Autre」への関係としての「実存l'existence」を人間存在の根源的なあり方として考える、いわゆる「実存の肯定 l'affirmation de l'existence」によって特徴づけられた現代哲学は、或る根本的な矛盾の中にとらわれている。この矛盾を他律の措定と自律の措定との間の矛盾として定式化したアラン・ジュランヴィル氏は、連続講演の最後の回となるこの第三回講演において、この矛盾の解決の手がかりを、精神分析において無意識を肯定するということが果たす役割に求めつつ、哲学の果たすべき役割を規定しようとする。

 実存者としての人間が運命づけられる他律を認めるとするならば、いつまでも自律を措定できず、他律自体が歪んでしまうが、反対に、自律を措定して認めてしまうと、他律を語ることができず、自律そのものも歪んでしまう。この二律背反の状況を、個人と社会のそれぞれのレベルで見出されるものとして捉え、精神分析と哲学を、そうした状況をめぐってそれぞれのレベルで展開される、「正確に呼応する二つの運動」として位置づけるということ。これが氏の議論の基本的なスキームである。

 歪んだ他律の表れとしての「症状」に苦しむ主体は、さしあたり「知る者」として想定される分析家の許を訪れるが、分析家は無意識を肯定することで、そうした「知っていると想定された主体」からは失墜すると同時に、そうした症状が、一つの意味ないし真理である限りで、単に取り除かれるべきものではないと主張する。このとき無意識の肯定は、一つの行為を構成するものとなり、この行為に答える形で、主体は彼自身、「試練」「彷徨」「受苦」の三相を経て、自身の有限性の引き受けという行為へと導かれる。一方で根本的な他律の承認、他方でこの他律が可能にし、隠喩的なパロールのうちで結実する新たな創造的な自律によって特徴付けられるこうした引き受けはしかし、主体をまやかしの同一性のうちに固定するものの存在によって妨げられている。主体はそれによって足踏みし、「麻痺」を余儀なくされる。これを氏は、いわゆる「原光景」に対応する契機と考える。この「原光景」においては、絶対的な〈他者〉の偶像的な現前が想定される一方で、主体はたんに屑にすぎないもの、犠牲としてつねに脅かされている者として自らを見出す。さて、こうした状況のなかに含まれている有限性をとりだし、引き受けることを可能にするもの、それがセクシュアリティの有限性であり、その根底をなす「死の欲動」である。つまり、この根底において主体は、「〈他者〉そのものに由来しうるような意味を拒絶し、この〈他者〉を、そして自分自身を欲動の対象に還元する」わけだが、この出来事を経てはじめて、「愛によって再び望む revouloir par amour」ということが主体にとって問題となる。すなわち、「自ら創出した欲望、むなしいエディプス的な欲望ではもはやない真の欲望に到達しつつ再び望むこと」が問題になるのである。

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 こうしてジュランヴィル氏は、分析の出来事を、「解釈」によって到達される一つの「作品」の創出として理解しているわけだが、その「作品」は閉ざされた偽りの同一性ではない、他の人間へと開かれた真の同一性を含意している。これを氏はユダヤ教を念頭に、「選びélection」という言い方で述べるだろう。主体が、絶対的な〈他者〉から差し出された同一性によって、〈他者〉の作品を証立て、それによって他の人間に対する、選ばれた者としての同一性とともに、他の人間へと向かう、というこのロジックは、もうすこし細かく検討するべきだろうが、ここではさしあたり措こう。いずれにしても、「作品」とその「選び」を介して、分析家の行為に呼応して成立した主体の行為は、さらにみずからの〈他者〉の来るべき行為へと開かれる。精神分析的行為の成就を意味するこの開かれが、「友愛」である。「この友愛において[...]自らの行為、作品に身を投じている者は、他の人間が身を投じることになる行為、作品へと開かれる。選びの伝達である。この友愛は、とりわけ、自分も分析家になることができると考えられた患者―分析主体に対する分析家の友愛である。それは、精神分析の伝承の倫理的な項、ラカンが「パス」の名のもとに導入しようと望んだものの倫理的な項である。」

 さて、以上のような精神分析についての理解をもとに、ジュランヴィル氏はこれと相同的(ホモロジック)な仕方で哲学の役割を規定しようとするわけだが、こうした問題構制が、哲学をいわば出来事の学として位置づけることを含意しているという点をまず指摘しておきたい。フーコーは『主体の解釈学』のなかで、真理への到達が主体の改変なしの「認識」によって可能になるとする考え方を「哲学」と呼んだ上で、主体に出来する大きな改変なしに真理への到達はあり得ないとする「霊性」の立場と対置していたが、この意味での「霊性」の、「哲学」への内在化(ラカンはむしろ、宗教が哲学を「吸入」したこと― 彼一流の地口で言えば « humante religieuse » ―が「実存」概念の前景化の源にある、という言い方をしているが (S.XXII 750114))は、宗教への参照が重要な役割を果たす19世紀以降の「実存の思想」の定数になっていると言うことができる。ジュランヴィル氏の構想は、こうした哲学をめぐる状況によって理解することができるものの、氏が想定する哲学と精神分析の厳密なホモロジーは、いくつかの問いを引き起こさないではいない。そのうち最も重要なのは、哲学の実践をめぐる問題、つまり哲学者は何をするのか、という問題である。

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 講演の後半は、前半の議論を忠実に反復する形で展開された。しかしここでは、精神分析について指摘された重要な契機が、それぞれ哲学において何に対応するのかを確認しながらみてゆくことにしよう。

 個人的主体において出発点にあった問題、「症状」にあたるものは何か。それは、伝統的秩序の動揺であり、そのなかでの「個人」の登場である。伝統的社会にとっての「根源的な敵」であり「症状」であるこの「個人」の出現に苦しむ社会的主体は、至高の立法者としての哲学者(リクルゴス、ソロン)のもとに向かう。

 しかし哲学者は、知を保持する者、至高の立法者としては失墜する一方で、ソクラテスのように、真理は各人のうちにあり、各人が自分自身から出発して再構築できるような法が正しい法であると主張する。すなわち分析家が症状について主張したのと同様に、「個人」は否定されるどころか、むしろますます望まれなくてはならないと主張する。さて、「個人」の出現は、伝統的社会に絶対的な〈他者〉が介入することに由来する断絶によってはじめて可能になる。したがって「個人」を望む、ということはすなわち、この断絶を望むということに他ならない。ここで重要になるのは、この「断絶についての知」である。この「断絶についての知」を、ジュランヴィル氏は「歴史」と呼び、哲学者の役割を「歴史の肯定」ということで規定しようとする。「歴史の肯定」は、未だ到来しない「個人」の社会的主体による引き受けの予告であり、予想されるあらゆる困難(後で見るとおり、その最大のものをジュランヴィル氏はホロコーストに見ている)にも関わらず反復される断絶の予告である限りで、一つの「行為」であり、「信の行為」である。この「行為」によって開かれた歴史的空間のなかで、社会的主体は「試練」「彷徨」「受苦」の三相をくぐり抜ける。ヨーロッパ文明や、キリスト教、ユダヤ教を例に取った、この点をめぐる議論の詳細には立ち入らないが、ここでこの行為をめぐって、氏が想定するホモロジーに収まらない部分があるように思われる点は、指摘しておく必要があるだろう。精神分析の中で、「無意識の肯定」という分析家の行為が個人的主体の行為を導くというのと同じ意味で、「歴史の肯定」という哲学者の行為が社会的主体の行為を導く、と言うことが果たしてできるのか。ここには、まず「社会的主体」をどのように理解するべきかという問題と同時に、その主体に対する分析家の現前ならぬ哲学者の現前のもつべき意味についての問いが開かれているということができる。

 こうした社会的主体を偽りの同一性のうちに固化させ、その有限性の引き受けを妨げるものを、ジュランヴィル氏は「土俗的異教 paganisme」の名で呼ぶ。これは原光景のいわばホモロジー的な対応物であり、「原光景の社会的な延長としての伝統的な犠牲のシステム」であり、社会的主体がこのシステムを乗り越え不能なものとして信じてしまうことによって、個人的主体が原光景を前にした際と同様の「麻痺」におちいることになる。「いずれにしても、世界は異教的なものにとどまらざるをえない。」形こそ違え、キリスト教のがわにもユダヤ教の側にも認められるこうした考え方によって、現代は、抗いがたくホロコーストという破局のなかへと飛び込んでゆくことになった。

 社会的主体がこうした状況に孕まれている根源的な有限性を引き受け、そのおちいった「麻痺」から抜け出ること、このことは資本主義によって可能になる。ここで第一回講演のテーゼが、歴史についての氏の構想の中で改めて主張される。「それはたしかに、土俗的異教としての資本主義、個人それ自体と、その創造的な力の犠牲的な拒絶としての資本主義だが、しかしそれはその最小の形態へと還元され、法権利の進歩と、個人のための空間がたえずより広く開かれるのともにのみ発展する土俗的異教としての資本主義なのだ。」

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 最終的に、個人的主体にとってのセクシュアリティと同じ位置に置かれるこの「資本主義」のあり方がどのようなものなのか。この点は本講演で繰り返されることはなく、こうした形による有限性の引き受けの帰結の一つとして、ユダヤ教とキリスト教がそれぞれの立場から土俗的異教の乗り越え不可能性への固執から抜け出して、キリスト教世界の国際的な「承認」―この「承認」の意味は繰り返し問われなければならないだろうが―のもとでイスラエルが建国されるということが可能になったという見解が示されるにとどまった。ただ、やはり氏の言う「悪の最小限の形態としての資本主義」の姿は、よりいっそう明確に分節化される必要があるように思われる。とりわけ哲学の役割、その行為が、資本主義のそうしたあり方を承認することに求められていた以上、それが単なる現状肯定のイデオロギーに堕さないためには、こうした分節化は氏の構想にとって不可欠の作業になるだろう。氏は哲学的行為の成就を、「歴史の終わり」を布告する「知」と、それぞれ個人の他者性へとゆだねられた人間たちを結びつけるものとしての「宗教」、およびあくまで間接的なものにとどまろうとする「民主主義」をうちに見る構想を提示して講演を締めくくったが、これらもそうした「資本主義」のあり方と密接に関連していると思われる。個人の水準におけるセクシュアリティとのホモロジーを手がかりとして可能になるような、こうした資本主義の分節化は、おそらく近刊予定の無意識と資本主義、そして歴史の終わりをめぐる著作―これは2000年の著作の冒頭で予告されている、四部八巻をなすはずの仕事の、番外編という位置づけになるようだ―のなかで展開されることになると思われるので、それとあわせて改めて検討してみたい。

 最後に、短い滞在期間のなかで密度の高い講演を三回にわたって行っていただいたジュランヴィル氏と、ご来聴いただいた皆様に改めて御礼申し上げます。

(文責:原 和之)

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