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日本思想セミナー「西洋中心主義と国民主義―アジア太平洋戦争後の制約」

2009.06.14 中島隆博, 内藤まりこ, 内田力, 日本思想セミナー

5月22日、日本思想セミナー「西洋中心主義と国民主義―アジア太平洋戦争後の制約」と題された、ハリー・ハルトゥーニアン氏(ニューヨーク大学)と酒井直樹氏(コーネル大学)による講演が行われた。

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酒井直樹氏は、「戦後史」の再考を主題とした。まず、酒井氏は日本の戦後思想に見られる「文明論的な転移」について説明した。「文明論的な転移」とは、学問的な知識の流れを経験的な知識と理論的な知識とに区分して、人々がその区分を自己確定の手段として用いることである。近代日本の学問は「西洋とその他」という範疇が使われ、理論的知識を「西洋」の専有物としたため、経験的知識と理論的知識との整理が不可能になってしまった。この際、西洋とその他に大きな差があると思い込み、互いが互いに期待を投射することでその区分が強化された。このような「文明論的な転移」が戦後思想の議論の中で機能していると考えられる。

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そのうえで、酒井氏は、戦後史に対して自身のもつ違和感を「これまでの戦後史には日本人の経験が十分に斟酌されていなかったのではないか」と表現した。ここで、「戦後史」という表現は米日中心的なものであるが、それは、太平洋横断的なヘゲモニーが東アジアの多くのひとびとを無視することで成り立っていたという事実を前提にしている。また、「日本人の経験」という表現には、敗戦の結果、日本人という自己確定の有様が揺れ動く様子こそが日本人の経験のもっとも重要な部分をなしているという意味合いを含んでいる。そして、「戦後史」を支える人々について、戦後史の語り手や書き手は日本国籍をもったひとに限定されないという点を確認した。

さらに、酒井氏は戦後史への疑問点として、①日本がかつて行った占領の豊かな経験が抜け落ちたために占領統治者・占領被統治者という両方の立場から占領を考察できていないこと、②日本の戦後史が普遍的に語られることが極端に少なく、より一般的な歴史の枠組みを作り出そうとする意欲が見られず、その裏返しとして、国際世界の西洋中心性や自由主義と国民主義の共犯関係に対して批判・懐疑が失われていること、③国民国家へ野放図な信頼が寄せられていること、を挙げた。
最後に、戦後史への違和感の根拠をたどるとアメリカ合衆国における地域研究の発達のあり方に行き着くので、戦後史に対する疑問は太平洋横断的なヘゲモニーのあり方の検討として提示されなくてはならないと主張した。

                              (文責:内田力)

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「不同一の時間性/予言不可能な複数の過去―歴史的な場における時間の形式」と題されたハルトゥーニアン氏による講演では、歴史的語り(大きな物語)によって抑圧され、隠蔽されてきた複数の過去をいかにして回復するかという問題が議論された。大文字の物語としての歴史の語りの背後にある複数的で重層的な過去を捉えるためにこれまで試みられてきた方法論を召還するハルトゥーニアン氏の重厚な語りは、ブロッホ、マルクス、ランシエール、戸坂潤、リクール等の方法論を批判的に取り越えることで、新たな可能性としての方法論を提示するに至る。

まず、E・ブロッホが、異なる空間における時間の共時性のなかに「現在ではない現在」の時間性を見出し、現在を複数の時間の現れとして捉えたことが、複数性としての時間を切り出す方法論の端緒とされる。そうした複数化された時間のなかでも、マルクスが省察した資本主義の構造では、労働の数量化に基づいて再構成される抽象化された時間から逸脱する個人の日常的生こそが取り戻されるべき歴史的時間として求められることになる。ここで、資本主義と結びついたナショナルな語りが、重層的かつ複数の時間性を一つの時間の経過へと馴化し、そのことが歴史として語られてきたことを思えば、P・リクールによる時間が語りと不可分であるとする主張は見逃されてはならない。同様の視座は、1930年代の戸坂潤の思想にも展開されることとしてあるものの、戸坂は資本主義のめぐる論争に関与しなかった。さらに、J・ランシエールにおいて、歴史の時間と語りとはより緊密な関係として捉えられる。ランシエールが提示したアナクロニスムは、現在から過去を叙述することで、線状的な時間から歴史の時間を切り離すものとしてあったが、このことはほかならぬ語りの問題こそが、過去を救い出すための糸口であったことを示している。しかし、ハルトゥーニアン氏は、このアナクロニスムでさえも、現在と過去とを区別する点において、線状的な時間を前提としていることを明らかにした上で、そうした線状的な時間が、資本主義体制下での近代技術がもたらした工場労働に基づく時間意識に由来することを指摘する。すなわち、線状的な時間それ自体は普遍的時間の構成ではなく、歴史的な叙述の問題として捉えられなければならないのである。

ここで、再びマルクスが召還され、抽象化された時間を歴史化が図られるのであるが、ハルトゥーニアン氏はこうした資本主義的な時間から逃れるオルターナティブとしての時間のありかたを、三つの事例―ランシエールが『プロレタリアたちの夜(La Nuit des Proletaires)』に記した19世紀半ばのフランスの労働者たち、P・ウェイスが『抵抗の美学(The Aesthetics of Resistance)』に描いた1930年代のドイツの労働者たち、さらには、1950年代日本に現れた「労働者サークル」の活動―のなかに見出す。彼らが就業時間の後、夜間に取り組んだ詩作行為は、資本主義体制下で搾取される主体であった労働者の抵抗の拠点として導き出された活動としてあっただけでなく、労働者たちを絡めとっていた抽象的時間から逃れるオルターナティブの時間として複数的な時間の可能性を開いているとする。

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ハルトゥーニアン氏のうねるような思考と語りによって導き出された線状的な時間性を超える複数的な時間は非常に魅力的であるものの、それが詩作活動を通して初めて顕現する時間の様態であるならば、創作された詩の作品それ自体が議論の俎上に挙げられるべきではなかっただろうか。とはいえ、ハルトゥーニアン氏と酒井氏による発表の後の議論では、両者の議論の論点となる「複数の時間性」や「日本人の体験としての沖縄」の位置づけなどについての活発な質疑が行われた。酒井氏の議論の枠組みのブラジル人移民の問題における蓋然性や、ハルトゥーニアン氏が労働者たちの詩作活動に見出したオルターナティブとしての時間における労働者の主体性の問題についてはより深い議論が交わされ、参加者は非常に刺激的な時間を共有したといえるだろう。

                            (文責:内藤まりこ)

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