報告 「世俗化・宗教・国家」 セッション2
5月12日に、「共生のための国際哲学特別研究Ⅲ」第2回セミナーが行われた。
ヨーロッパ班の担当である今回は、『宗教とモダニティ』(世界思想社 2006年)から序文(竹沢尚一郎)、第一章「世俗化論争と教会―ウィルソン世俗化論を手がかりとして」(山中弘)、第二章「「聖なるもの」の系譜学―デュルケーム学派からエリアーデへ」(竹沢尚一郎)が取り上げられ、金原典子(UTCP, 博士課程)による報告が行われた。
まず、竹沢尚一郎による序文から、『宗教とモダニティ』の目的と論点が確認された。本書は宗教を「モダニティの進行のなか生み出されたと同時に、モダニティそのものを限界づける概念」と捉える認識の下で、宗教とモダニティとの関係を考えることを目的とする。なかでも宗教学・宗教社会学が両者の関わりを捉える説明概念として用いた「世俗化」の議論の問題点を明らかにし、その他の分析概念とともに、それらの妥当性と有効性を問い直すことを試みたとする。
山中弘による「世俗化論争と教会―ウィルソン世俗化論を手がかりとして」では、社会学者ブライアン・ウィルソンが提唱した世俗化論、それに基づく諸議論の特徴を概括し、ウィルソンの議論に批判的な立場を取るイギリスの教会史研究者たちが展開した世俗化論争の論点を考察する。近代化の進展に伴い、宗教の社会的意義が喪失する現象を「世俗化」と捉えたウィルソンの世俗化論(1966)は、この論への修正や廃棄を唱えるさまざまな主張を生み出しながら欧米の宗教社会学の主要テーマとして議論されてきた。山中氏が取り上げるイギリスのキリスト教会史の研究者たちは、ウィルソンの世俗化論を批判的に受け止め、イギリス各地の個別の事例を実証的に検証することで、世俗化論が提示する近代化に伴う都市化や合理化と世俗化との因果関係に疑義を唱える。しかしながら、そうしたキリスト教会史の研究者たちの議論の問題として山中氏が指摘するのは、彼らの議論の枠組みにおいて、世俗化を通して近代世界を把握するウィルソンらの世俗化論と、「宗教の衰退」というパラダイム(大きな物語)を共有しているという点である。このことは、教会史研究の実証的手法の限界である以上に、次なるパラダイムを提示しえぬ世俗化論それ自体が抱える論理的な限界として示されるだろう。ディスカッションでは、イギリスにおける世俗化論において、国民を構成するはずの移民への視座が欠落しているために、イギリスにおける世俗化の過程が正しく捉えられていないとする指摘や、山中氏の議論において世俗化論の諸説の理論的検討が不十分ではないかとする指摘などがなされた。
続いて、竹沢尚一郎「「聖なるもの」の系譜学―デュルケーム学派からエリアーデへ」についての議論が行われた。本論文は、宗教学の中心的概念である「聖」について、エミール・デュルケームからエリアーデにいたる「聖」概念の変遷を見通し、「聖」が時代の社会的課題に応えるものとして要請され、その時代や課題に応じた異なる内容を示してきたことを明らかにする。本論文は、近代社会の諸問題を乗り越えるべく要請された「聖」が普遍化され、既存の学問の枠組みにおいて有効な分析概念として機能してきたことを省みて、「聖」概念を、それが立ち上げられた各々の個人的、社会的、歴史的文脈において捉え直す作業として意味づけられる。こうした作業がただちに喚起するのは、ある分析概念が歴史的・社会的に構築されたとして、そうした分析概念を通して社会や事象を捉えることを学問的営為とする「科学」としての学問それ自体への問いであろう。ディスカッションでは、既存の学問において有効とされてきた分析概念を生み出した歴史的、社会的コンテキストへのまなざしの意義とともに、その先に提示されるべき学問のありかたをめぐって活発な意見が交わされた。
(文責:内藤まりこ)