報告 「世俗化・宗教・国家」 セッション1
5月7日に、共生のための国際哲学特別研究Ⅲが行われた。
今回が文献講読の初回である。今年度は、受講生を中東班・ヨーロッパ班・日本班に分けて、持ち回りで各班から講読文献を持ち寄る方式をとっていく。今回は中東班の担当で、以下の文献をとりあげた。
東長靖『イスラームのとらえ方』山川出版社(世界史リブレット)、1996年。
大塚和夫「イスラーム世界と世俗化をめぐる一試論」『宗教研究』78巻2号、pp. 401-426、2004年。
まず、イスラームに関するコンパクトな概説書である東長『イスラームのとらえ方』の内容報告が担当者・光成歩(総合文化研究科地域文化研究専攻、D2)からあった。イスラーム諸国が植民地体制に編入されて前近代のイスラーム法は近代法に替わった、との本書の見解に対して、報告者は「近代法」と「イスラーム法」とを「法」という概念で括って連続的にとらえることの可否について問題提起をした。出席者からは、同書がイスラームを「宗教の枠内にとどまらない」としつつも「「宗教」理解」を目指している点も同様の問題を含んでいるとの意見が出された。以上をうけて羽田先生は、著者がイスラームを近代的な視点や術語では把握・説明できないものとする一方で、本書全体の論調や説明は常識的(近代的)なので、この点が若干の分かりにくさを生んでいるのではないかと指摘した。また、出席者からは、本書のようにイスラームにおいてウンマという共同体の存在を強調する言説は、近代以降のものであろうし、また現代でも地域により実情は大きく異なる、という意見も出された。
ゼミの後半は、大塚「イスラーム世界と世俗化をめぐる一試論」を担当者の阿部尚史(UTCP、PD)が報告し、これをめぐって議論した。本論文は、それまで世俗化論が西欧近代の事例を中心にしていたのをうけて、イスラームの事例からは世俗化論がどうとらえらえ、批判できるかを述べたものである。報告後の議論では、まず出席者から本論文が「世俗主義secularism」と「世俗化secularization」を明確に区別していない点が指摘された。これに関連して、「世俗化」に相当する単語がアラビア語やペルシア語に存在していない可能性があると判明した。さらに、フランス語では日本語の「世俗化」をセキュラリザシオンとライシザシオンに分けて議論できるのに対して、日本語では「世俗化」という曖昧な単語ですべてを説明せねばならない点が問題なのではないかとの指摘があった。さらに、本論文は、中東(特にアラブ)のスンナ派を例にとって、西欧近代中心の世俗化論の不備を示すという段階にとどまっているとの意見もあった。これに対して、羽田先生は、日本語で議論する以上、日本語の「世俗」という語やそれに対応する現象を通時的に検討してみることが重要であると述べた。
(報告:内田 力)