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【報告】メルロ=ポンティにおける自然と人間

2009.05.07 千葉雅也, セミナー・講演会

4月23日(木)、リヨン第三大学のエティエンヌ・バンブネ氏を迎えてセミナーが行われた。そのテーマは、メルロ=ポンティにおける「人間学」である。

バンブネ氏によれば、メルロ=ポンティの哲学は、「知覚の現象学」から始まって、最終的には「感覚の存在論」へと向かう体系であり、表立って「人間学」を作ろうとしたものではない。だが、彼の体系は、つねに一つの「人間学」によって支えられていると見ることができるのである。バンブネ氏は、ひじょうに明晰なしかたで、そのポイントを示してくれた。率直に述べるなら、メルロ=ポンティの「人間学」は、とてもバランスがいい。しかし謎めいた魅力のようなものはなく、どうにも健全にすぎる、とも感じられた。メルロ=ポンティは、動物的生(ゾーエー)と人間的理性(ロゴス)のあいだを決して切断しないが、同時に、人間の「象徴的」なロゴス、ものごとをそれ自体「として」対象化する言語能力が、やはり特別なものであることを強調している。人間は、みずからの身体において「受肉」したロゴスを生きている。逆にいえば、人間の世界は、「ロゴス化」された「肉」によってかたちづくられている。だから、メルロ=ポンティの「人間学」は、人間とそのほかの動物一般を、決して同一視はしないのだが、かといって、人間のポジションを特権化するわけでもない。

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興味深かったのは、バンブネ氏が、こうしたバランスのとりかたを、ハイデガーと比較したことである。周知のとおり、ハイデガーは、講義『形而上学の根本諸概念』において、「人間は世界を作る」・「動物は世界が貧しい」・「石には世界がない」という三つのテーゼを提起した。この文脈においても、人間の人間たるゆえんは、言語であった。人間は、言語を介することで、動物的生の利害関心から離れて、諸存在者をいわば中立的にまなざすための地平、すなわち「世界」(Welt)をつくる。しかし動物たちは、利害関心によって価値づけられた対象に「とらわれて」おり、このとらわれが囲い込む「環境世界(Umwelt)」のなかに住まっている。ハイデガーによれば、こうした動物的世界を「貧しい」と形容するのは、たんに、人間的世界との構造的差異を示すためであって、両者のあいだに価値のヒエラルキーを設定しているわけではない。この点が、メルロ=ポンティの立場とひじょうに近いのである。しかし、ハイデガーによる「貧しい」という形容は、にもかかわらず、どうしても価値づけのニュアンスを免れないだろう。それについては、ジャック・デリダが、『精神について』のなかで論じているとおりである。デリダの見解は、要するに、ハイデガーはやはり、動物的世界を人間的世界よりも下位に置いたと言わざるをえない、ということである。ところで、こうした批判は、もちろん「動物の権利」といった問題にも関わっているが、それ以上に、むしろ我々人間たちのあいだにおいて、「世界」との「本来的」な関わりをもつ者と、それをもたない者、という区別を生みかねないという点に、警戒しているのである。つまり、正しく人間的である人間と、正しく人間的でない、すなわち動物的でしかない人間のあいだの(おそらくはひじょうに恣意的な基準による)差別。

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しかし、メルロ=ポンティの言説は、一見したところ、より穏健なスタイルを採っているため、こうした危険性を、うまく、というよりも曖昧なしかたで、回避しているように思われる。実際、メルロ=ポンティは、正しく人間的でない、すなわち動物的でしかないような状態を、たんに厄介払いするのではなく、そうした状態との「近傍」に、少なからぬ関心を向けていたのである。バンブネ氏によれば、それは「幼年期」というテーマにほかならない。人間はみな、その「幼年期」において、いまだ十分に「象徴化」されざるしかたで、世界と触れあっている。精神分析的に言えば、そこに言語が──外在する自律的な機械としての言語が──インストールされることで、世界は(本来的に)人間化される。しかし「幼年期」の世界は、成長をとげた後も、なくなってしまうわけではない。「幼年期」の世界は、いわば、つねに「潜在」しているのであり、人間はときに、そこへと「退行」することもある。

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こうした論点があるために、メルロ=ポンティは、ハイデガーとは違って、正しく人間的な人間性を、確固たる所与と見なすのではなく、どこか傷つきやすく、壊れやすいものと見なすような、「弱さ」への感受性をもっているように感じられる。けれど、にもかかわらず、その「弱さ」は、ぎりぎりまで健全な「弱さ」であるように思われる。むしろ、「弱さ」ゆえの毒々しさというか、「弱さ」としての暴力について、問うてみることはできないのだろうか。メルロ=ポンティの哲学は「死」をテーマとしない。それはおそらく、どれほど「退行」するにしても、生き生きとした「肉」の充実を引き裂くようなカタストロフィーについて考えることを、じつに巧みに回避しつづけたからだろう。そこに「死」をどうやって、ふたたび導入することができるだろうか。ハイデガーのように、正しく人間的な人間性が、まさしくその正しさを全うするための理念としての「死」を持ち込むのでは、的外れであろう。「弱さ」への倒れ込みにおいて、正しさの直線性を揺さぶり、ジグザグの亀裂をゆっくりと走らせて、肉が肉であるままに苦しむような死。「自然」を超える死でもなければ、たんなる「自然死」でもない、「自然」に内在してそれを転倒させる死。徹底して自然のただなかで作動する「反自然」としての死。メルロ=ポンティの「人間学」の彼岸、といってもそれを強いて延長し、ほとんど引きちぎりそうになるぎりぎりのところで明滅し始めるのは、そのような問いではないだろうか。

(文責:千葉雅也)

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