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報告「世俗化・宗教・国家」セッション3

2009.05.20 羽田正, 世俗化・宗教・国家

5月18日、「共生のための国際哲学研究Ⅲ」第3回セミナーが行われた。

今回は日本班の担当で、吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー—東京・盛り場の社会史』(東京: 弘文堂, 1987年;文庫版, 東京: 河出書房新社, 2008年)を題材に、田口純子(工学系研究科建築学専攻M1)が報告した。

本書は、明治以降の東京の「近代化」と意味論的な構造的変容を、盛り場(浅草→銀座、新宿→渋谷)を通して論じた作品であるが、報告者の田口は、特に「世俗化・宗教・国家」との関わりの深い部分に注目し検討することとした。田口の問題関心は、近代日本人の宗教への帰属意識の弱まり(特に、寺町・門前町の解体)とそれと逆行するような宗教的権力の集中(廃仏毀釈、近代天皇制)という問題にあり、世俗化を、空間を通して考えたいとする。

本書の分析の視点は、都市において見る者と見られる者は同時的循環的であり、また「出来事」としての盛り場においては、メッセージの「送り手=演者」と「受け手=観客」も明確に区分することが出来ない、という点である。このことを把握した上で、江戸時代以来、寺社と密接に結びついていた盛り場である上野と浅草に注目した。
1625年に建立された上野の東叡山寛永寺は、京都の比叡山を模し、江戸幕府にとってある種の聖域性を持つものと認識された。一方で、明暦の大火(1657年)以後、火除け地が設定され、見せ物小屋が立ち並ぶ盛り場となった。しかし、明治期にはいると、国家によりこうした見せ物小屋の類は排除され、近代化の象徴ともいうべき内国勧業博覧会の会場とされた。幕府の解体と天皇権力の確立と期を同じくして、「近代的な」まなざしを組織するメディアとしての博覧会が国家により開催されたのである。しかし、近代的な博覧会に対するまなざしにしても、実際は、所謂「前近代的」な、ご開帳への興味本位のまなざしのようなものを孕んでいたことが注目されるのである。
明治の代表的な盛り場である浅草は、元来浅草寺でのご開帳を通して、多数の群衆を集める一方、寺の裏には遊郭も存在し、行き倒れや捨て子も多く、「死」と密接な関係をもった場所であり、いわゆる「異界」への窓としての性格を保持していた。
これが明治以降、国家主導で大規模な整備が行われた。その整備計画自体は不振で、盛り場の管理経営は民間に委ねられることとなる。浅草の娯楽として、浅草富士や12階の建設により、俯瞰する視点つまり高いところから見下ろすことが生まれた。そして盛り場としての浅草的なるものの特徴は、1:強力な消化能力、2:先取り的性格、3:変幻自在さ、4:共同性の交換、といった四点が挙げられた。
報告者の田口は、場所性に関する著者の理論が必ずしも一貫しているわけではないと批判した上で、明治以降に、権力の変化に伴い、聖・俗の空間秩序に変化があった可能性を指摘し、今後、この問題を再定義するべき必要性を述べた。

報告を聞いた上で、出席者からは、吉見の上演論的パースベクティヴ「演じる者と演じられる者」という区分自体が「近代的」で、前近代の演劇への配慮が乏しいのではないかとの意見が示された。また前週に本セミナーで、竹沢尚一郎「「聖なるもの」の系譜学―デュルケーム学派からエリアーデへ」を検討し、「聖」という術語が近代以降徐々に意味を確立していた過程を検証していた。この知識をもとに、吉見の「聖」・「俗」という語の使い方に鋭い疑念が呈され、本演習の内容に根本的にも関わる「聖俗」の問題に議論が集中した。その中で、「聖」・「俗」という語が前近代各時代の文献の中でどのような意味で利用されているか厳密に検証する必要があるのではないか、との提案がなされた。この点について、網野善彦が近代において聖俗と振り分けられたものを、「無縁・公界・楽」に再定義したことの意義についても議論が交わされた。
近代以降、西洋の概念・学問術語が、日本をはじめとした各国に輸入・翻訳されたことは周知のことで、この点を自覚して研究を行うことは勿論重要である。しかしその段階に留まらず、例えば普遍的な概念とされる、“sacred”の訳としての「聖」という語が元来、どのような意味を持っていたのか、前近代に遡って各国の事例を検証し、改めてその語の共通性や違いを見出す作業こそが、今後の人文科学にとって喫緊の課題であるのではないか、との指摘があった。この点は、本COEの究極的な課題である「人文科学の再構築」にも密接に関係する問題であり、今回の議論を通じて、あらためて参加者に共有されたと思う。

(文責:阿部 尚史)


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