他者の耳をもつ哲学―エラスムス・ムンドゥス×UTCP
昨日4月23日、欧州連合エラスムス・ムンドゥス「ユーロ・フィロソフィー」の一環としてエティエンヌ・バンブネ氏の講演「メルロ=ポンティにおける自然と人間」がUTCPで実施された。講演の報告は後日掲載することにして、画期的なエラスムス・ムンドゥスに関する感想をさしあたり記しておく。
【参考】エラスムス・ムンドゥス「ユーロ・フィロソフィー」に関する本ブログの紹介記事
1)欧州連合エラスムス・ムンドゥス「Euro Philosophy」、日本でスタート!
2)再び見い出された大学の記憶──欧州連合エラスムス・ムンドゥス「Euro Philosophy」開催中
嬉しいことに、今回のUTCP講演には、エラスムス・ムンドゥスに参加しているヨーロッパの教師3名と学生5名も足を運んでくれた。一ヶ月間継続される集中講義の終盤で疲れているであろうにもかかわらず、駒場キャンパスにまで来て下さり、活発な討論を繰り広げていただいたことには感謝する次第である。講演会はフランス語のため少人数(とはいえ25名程度)で実施されたものの、ヨーロッパ勢と日本勢が入り混じった空間は何処と特定しがたい知的空間を醸成していたように思えた。
エラスムス・ムンドゥス「ユーロ・フィロソフィー」はフランス・ドイツの哲学を核として2年間のプログラムが組まれており、選抜された少数の修士課程の学生がヨーロッパの内外の提携大学で講義を受講する。こうしたエリート主義的とも言える試みを揶揄してこう裁断する向きもあるだろう――これは所詮、フランス・ドイツの哲学の覇権の伸長のために実施される西欧中心主義的な企画にすぎない。日本やアメリカのような西欧圏外の大学で開催することで、フランス・ドイツの哲学を延命させ、保身的な身振りで輸出しているのだ、と。
だがしかし、エラスムス・ムンドゥスに若干参加した限りでの私の感想は逆である。私が目の当たりにしたのは、むしろ、フランス・ドイツの哲学が己を他者へと果敢に曝け出している姿である。しかも、個々人の私的交流や一回限りの国際会議という形ではなく、研究教育という持続的な大学間制度としてこれを実施している点が画期的である。
哲学こそが諸学問の王であると公言できる時代は過ぎ去り、いま、哲学の使命や課題が存在論的に問われている。哲学が「知を愛する」というある種不定形な営みであるならば、今日、その使命とはさまざまな学問、さまざまな文化、さまざまな人々に耳を傾けることであるだろう。哲学を通じて他者の声を聞きとる耳を涵養すると同時に、自らの耳を他者の耳へと変容させることが重要だろう。エラスムス・ムンドゥスは、他者の耳に曝され、他者の耳を形成することで、哲学が有する本質的な開放性を将来的な制度として十全に肯定する試みであるようにみえる。
ある外国人が私たちの国の大学制度のことを知ろうと思ったならば、彼はまず、力を込めて、「あなたのところでは、学生は大学とどのように関係しているのですか?」と尋ねるだろう。私たちは「耳を通して、聴講者としてです」と答える。外国人は驚く。「耳を通してだけですか?」と彼は再び尋ねる。「耳を通じてだけなのです」と私たちは再び答える。――ニーチェ『私たちの教育施設の将来について』
(文責:西山雄二)