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【旅日記】シナイ半島の歩き方 最終回 スエズ

2009.04.26 太田啓子

太田啓子のシナイ半島旅日記の第五回。今回は聖カトリーナからスエズに向かい、その後カイロへと帰る最終回です。

3月16日(月)・3月17日(火)

5時起床。前日のシナイ山登山の疲れと靴ずれもあり、少しはゆっくりしていたかったのだが、聖カトリーナからスエズ、カイロ方面に向かうバスは一日一本、朝6時しかないというので早起きを余儀なくされる。今回の旅で分かったのだが、シナイ半島内のバスルートは意外と整備されていて、個人で動くことはむずかしくはない。ただ、本数が少ない上に、ほとんどが早朝便なので、これを逃すと困ったことになる。

バス乗車時にチケットを購入し(20ポンド≒400円)、一路スエズへ。4時間ちょっと揺られた後、10時過ぎにスエズ・バスターミナルへ到着。その後スエズ市内へと向かう。スエズはグレコローマン時代プトレマイオス朝期にはすでに人が居住しており、当時はクリスマと呼ばれていた。本来はクルズムの住民への水供給地であったが、イスラーム期に入るとメッカ、メディナへと向かう巡礼者によって、巡礼港として利用されるようになった。

マムルーク朝期の三大百科事典家の一人であるカルカシャンディー(1355-1418)は紅海の主要な港町としてアイザーブ、クセイル、トゥール、スワイス(=スエズ)の四つを挙げている。マムルーク朝末期になると軍港としての役割も担うようになり、オスマン朝期に入ると紅海におけるオスマン朝海軍の補給港となった。1869年にスエズ運河が完成するとスエズの重要性は一層増大し、その後第二次中東戦争(スエズ動乱)、第三次中東戦争の舞台となったのは周知の通りである。

suez1.jpg

まずはスエズ湾へ。穏やかな港である。遠くにアタカ山脈が見える。湾に面した通りは遊歩道として整備され、市民の憩いの場となっている。街路樹がスエズカラーである青と白にペイントされているのがちょっとやり過ぎ。

trees.jpg

次にポート・タウフィークへ。スエズは市の中心部と、スエズ運河のあるポート・タウフィークに分かれている。両者はマイクロバスで結ばれているが、徒歩でも20分くらい。道沿いにイギリス植民地期の古い住宅街がある。今も居住用に用いられており、大変美しい建物である。

house.jpg

スエズ運河は第三次中東戦争時にはイスラエルとエジプトの軍事境界線となり、船の航行が不可能だった時期もあったが、今は大きなタンカーが悠々と航行している。岸壁に腰かけてぼーっとしているとあっという間に時間が経つ。その後、市内に戻り、名物のスビエト(イカのフライ)などを食べてのんびり過ごす。翌日午前中までスエズ市内を散策し、午後にバスターミナルよりカイロ行きのバスに乗車(チケット8.5ポンド≒170円、エアコン代50ピアストル≒10円)。二時間後にカイロに到着――。

以上で全五回にわたるシナイ半島旅日記も終わりです。私の個人的な旅行報告にお付き合い下さいました皆様、どうもありがとうございました。私の専門は前近代のメッカ・シャリーフ政権史、アラビア半島、紅海文化圏の歴史ですので普段は図書館にこもって文献史料をひたすら読む生活を送っています。しかしながら史料の向こう側に見える人々の営みに思いをはせるうち、「この町はどんな場所なのだろう?」「この港に行ってみたい」との思いが日々強まり、今回のシナイ半島行きとなりました。私が史料で触れている紅海の港町としてはほかにヤンブゥ、ジッダ(サウディアラビア)、クセイル(エジプト)、アイザーブ(スーダン)、アデン(イエメン)などが挙げられますが、政治状況や治安の問題もあり、訪れられるところは決して多くはありません。でも可能な限り現地に赴き、論文を読んで下さった方が「景色」を思い浮かべられるような研究をしたいと考えています。ということで、今年は何とかしてクセイルに行ってきます。ブログ報告ができるか(=許されるか)どうかは分かりませんが・・・・・・。

suez2.jpg

(文責:太田啓子)

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