Blog / ブログ

 

台湾印象記―百「閲」は一見に如かず

2009.04.08 王前

三月末に、UTCPがそれぞれ台湾大学哲学部と台湾中央研究院と共催する「東洋と西洋の哲学伝統における共生哲学シンポジウム」と「共生と文化テリトリー―東洋におけるフランス哲学」の二つのイベントに参加するために、わがUTCPミッション及び今中国留学中の東文研の院生三名が一緒に台湾に出張した。沢山の新しい出会いがあり、楽しい議論も戦わされ、大変充実した学術交流であった。

中国大陸出身者の筆者にとっては、初めての台湾行きで、行く前からちょっとわくわくしていた。台湾は元々私にとって遥か遠くにある土地で、上海や北京以上に関心を持つ対象ではなかった。しかし、華人世界初の流血沙汰を伴わない政権交代という歴史的大きな出来事が2000年に起こり、それまで台湾を五十年以上統治してきた国民党政権に取って代わって台湾の独立を党是とする民進党が政権を取ったのを境に、俄かに台湾への関心が高まった。これからどうなるのか、強い関心が煽られたのである。

ここ数年間は益々便利になったネットのお蔭で台湾の主要紙の電子版を毎日のように読むようになり(そのために不勉強がさらにエスカレートする一方だが)、その「勤勉」なネット・サーフィンの結果、今となってアマチュア・台湾ウォッチャーと自称している。しかし、インタネット・ブラウザという閲覧の手段だけでは、正に百「閲」は一見にしかずと叱られそうな感じが常にあるので、やはりこの目で台湾を色々見ようと、飛行機に乗る前から期待を膨らませていた。

今回私たちが訪れた研究機関についてまず簡単に紹介したい。台湾大学は周知のように、戦前の旧帝大系列に属した大学で、戦後は内戦に負けた蒋介石政府と一緒に台湾に渡った有名な学者が多数加盟したこともあり、更に充実した教授陣を有することになって、今日まで台湾の最高学府でありつづけている。その哲学部は1928年に台北帝大の設立と同時に出来た、伝統のある学部である。戦後大陸から台湾に移った、新儒家を代表する哲学者牟宗三(1909-1995)も晩年ここで教鞭をとったことがある。わがUTCPで何回もその名前を耳にしたことがあるこの新儒家の代表的哲学者は、中国哲学の活路を見出すために、自らカントの三大批判を翻訳し、儒教とカント哲学とを架橋するのに渾身の力を注ぎ込み、独創的な哲学を完成させたのである。

哲学の生産的な仕事だけでなく、台大哲学部は台湾民主化運動とかかわったこともある。1970年代初期に起こった有名な「台湾大学哲学部事件」である。当時国民党政府の独裁政治に立ち向かった数名の若手研究者は解雇などの厳しい処分をうけたが、最近正式に名誉回復されていて、彼らの中には今日台湾哲学界を背負っている哲学者が何人もいる。正に哲学と権力の応酬が展開された歴史的な舞台において、我々の共生哲学シンポジウムが開かれることになったのである。

もう一つの研究機関、中央研究院(Academia Sinica)は元々1928年に中国本土に出来た中国を代表する最高研究機関で、初代の院長は元北京大学学長、優れた学者でもある蔡元培(1868-1940)。この研究院は1949年に蒋介石政権とともに台湾に移って、最初の頃は厳しい環境にあったが、新文化運動 の時に指導的な立場にあった大学者胡適(1891-1962)を含む歴代の院長(胡適の在任期間は1958年から1962年まで)の指導の元で研究機関などが充実され、規模も拡大されて、今日理系・文系多数の研究所を有している。研究者は教える義務が基本的に無く、研究に専念できるユニークなところで、台湾版CNRSと言えよう。

肝心なシンポジウムの内容は別途詳しく報告するが、ここでは筆者は我々の「共生哲学」をめぐる学術交流がなされた台湾の今日の知的状況を中心に、滞在中に見聞したことを少し記しておきたい。

taiwan2.jpg

哲学は今日の台湾でどういう状況にあるのか、これは筆者が行く前から大きな関心を持っていることの一つである。哲学を専攻している学生の総数は把握していないが、台湾大学哲学部だけを見ると、学部生は約二百人で、大学院生は約七、八十人いるそうだ(台湾大学哲学部で中国哲学を教えている佐藤将之先生の話による)。中国本土で一番の実力と歴史を誇っている北京大学哲学部(牟宗三も卒業生の一人)は設立以来、九十年の間約八千名の学生を育てたことと比較すると、そんなに少なくない数字であろう。台湾では大学院のことを普通は研究所と呼び、台大では「東洋哲学」と「西洋哲学」の二つの専攻に分かれている。『哲学論評』という学術誌も毎年定期的に編集され、既に三十五号まで発行されている。台湾の哲学界を引っ張る重要な地位を占めていることは言うまでもない。

一般社会では、どれぐらいの人が哲学に関心を持っているかとなると、細かく調べる余裕はなかったが、夜に一回台湾で最も有名な本屋の一つである誠品書店に行ってみた。この台北市敦化南路にある二十四時間営業の本屋は、私が前からネットでその存在を知っていて、知り合いによく本を読まない「蔵書家」と揶揄されている私だから、是非一回覗いてみようと思っていたところである。夜の懇親会が終わって、やるべきことを全て済ませたあと、タクシーを拾って、ホテルから十分ぐらいのところにある誠品書店に向かった。

店に着いたら、目に止まった風景にまずちょっと心が打たれた。なんと、もう夜十時を過ぎたにもかかわらず、人があふれていた。店のレイアウトがなかなか工夫され、おしゃれで、素晴らしい読書の空間という感じ。実際、床に座って本を読んでいる人が目立っていた。嬉しいことに私が暫く「巡視」していた哲学書のコーナーの床にも何人かの若い読者が座っていて読書にふけっていた。哲学書のコーナーは日本と同じく、東洋哲学や西洋哲学などに大別され、著者名順に本が並んでいた。日本と違うのは、洋書と中国語書籍の区別をせずに、同じ著者の本であれば、同じ場所に並べられる点である。

ジャック・デリダが台湾でもかなり研究されていることは前から知っていたが、台湾でどれぐらい人気があるか関連出版物を通してチェックしてみた。フランス語の原書は残念ながら置いてなかったが、彼の主著の英語訳や研究書など、二十冊ぐらいはゆうに越えている。その中に中国大陸の哲学研究者が書いた本も入っている。台湾では中国語の伝統的な字体繁体字が使われているので、中国大陸の学者が簡体字で書いた本は一旦繁体字に変換され、台湾で出版されることが近年増えている。筆者の記憶では、二十年ぐらい前、鎖国状態から開放された直後の中国大陸で本格的に現代西洋思想が紹介され始めた頃は、翻訳が追いつかなかったので、多くの台湾で出版された翻訳書が翻刻され、当時の思想啓蒙に大きく貢献した。今は中国大陸の学者の書いた思想研究書や翻訳した哲学名著は台湾でも売れるようになり、時代の変化を感じる。

哲学書のコーナー全体を細かくチェックしてみたら、現代を代表する哲学者の原書(英語版)や中国語訳は一通りそろっている。日本哲学関係の書物も結構そろっている。二十四時間営業の本屋にしては、なかなかやるなと感心した。ここで記念にデリダとメルロ=ポンティーの英語訳を各一冊購入してから、哲学書以外のコーナーも覗いてみた。こちらも種類が結構充実。実用書は勿論たくさんあるが、美術史の書物なども豊富に並んでいる。本屋のセンスの良さが一目瞭然。外国語関係の棚を見渡したら、日本語の本がかなり目立っている。諸外国語学習用書物の棚のそばに、日本語だけの棚が単独で一つ立っていた。日本人作家の中国語訳も非常に目立つところに置いてある。例えば、中国大陸で最も読者が多い日本人作家となっている村上春樹の小説はここでもすぐに眼に入るところにずらりと並んでいて、台湾での彼の人気の高さを窺い知れる。

先日読んだ台湾の新聞によると、誠品書店はよく各分野の専門家を招いて、「誠品講堂」という講座を開いているそうである。最近「西洋現代思想名著選読」というクラスが開かれ、ハイデッガーの『存在と時間』を含む哲学の名著が取り上げられて、百名以上の社会人が年間三十六回の授業を最後まで聞いたそうである。要するに、本屋としての機能だけでなく、一種のカルチャー・センターのような役割も果たしている。後に中央研究院中国文哲研究所の楊貞徳先生から聞いた話だが、私が行った二十四時間営業の「誠品書店」敦化南路店は、開業当初は店がどれぐらい持つか皆心配していたのでよく本を買いに行ったが、予想外に健闘し、今はもう台北の夜の素晴らしい風景の一つとなっている(写真をこのブログに載せて、今の台湾の読書風景を少しでもお見せしようと考えていたが、この日以外結局行ける時間が無かったので、残念だった。台湾にいらっしゃる機会があれば、お勧めの場所のひとつ)。

taiwan3.jpg

誠品書店に行った翌日は中央研究院に向かった。中央研究院は台北郊外の南港に位置し、非常に閑静な場所である。ここでは東洋におけるフランス哲学の受容をめぐって、素晴らしい発表と活発な議論が行われた。フランス哲学の門外漢である筆者は、発表内容に高い関心を持っているが、フランス語で行われたセッションは、まだフランス語の文盲であることを恰好の口実に途中抜けて、前出の楊貞徳先生のご好意で、研究院敷地内にある胡適記念館を中国文化の研究をしている数名の同行者と一緒に見学した。

フランス哲学の薫陶を受ける貴重なチャンスは失ったが、思わぬ収穫もあった。私たちが中央研究院を訪れたのは月曜日で、開館日ではなかった。胡適の研究者として知られている楊先生は私たちが胡適に関心を持っていると知って、大変喜んで、なんとわざわざ記念館に電話して、見学の許可を取ってくださったのである!そのお蔭で想定外の見学が出来た。

HuShiu.jpg

今日の日本では胡適のことはあまり知られていないが、彼は二十世紀中国の学界のスーパー・スターだった。ジョン・デューイのところで哲学を研鑽し、中国におけるプラグマティズムの主な普及者の一人である。若くして白話文運動(口語で書く)を発起し、一躍有名になったこの大学者は学界だけでなく、社会のことについても積極的に発言する――今風に言えば公共知識人でもあったので、一般社会でも非常に影響力があった。彼は現代中国の最大の自由主義者として、人生の最後の数年間を台湾で過ごした。昔の中国大陸では反動的な思想家としてさんざん批判されたが、最近では学界を中心に再評価する機運が高まり、数十巻に及ぶ全集も出ている。文豪の魯迅よりも寧ろリベラリズムを唱えた胡適の方がもっと中国の問題に対して正しい処方箋をだしたのではないかと主張する学者もこの十数年間現れている。彼は現代中国の自由主義系譜を語るのに欠かせない思想家である。二十世紀前半日々ラジカル化した中国の思想界で温厚な自由主義者として知られる胡適は、時間が経つにつれて、影響力を失いつつあったが、二十世紀の最後の十年に入ってからは、彼の思想の真価が再考され、中国大陸の有識者の間で高く評価されているのを中央研究院のすぐそばにあるお墓の中で静かに眠っている胡適が知っていたら、どんなに喜ぶだろう。

私たちが見学した記念館元々胡適の住居であった。中には彼の書斎、応接間、蔵書などが当時のまま保管されている。彼の大きな写真を見ながら民主主義と個人の自由を擁護した彼の一生を思い浮かべ、筆者は過ぎ去った激動の二十世紀の中国の歴史に暫く浸ったような感じがした。記念館で彼の題字が印刷されている栞を数セット買ったが、その一枚に「寛容は自由よりもっと大事」と書かれている。二十世紀の中国大陸と台湾で自由主義の確立のために尽力した胡適だったが、その彼から見れば、寛容の精神がより重要である。これは今日私たちが共生哲学を考える上でも少し参考になる思想資源となれるだろう。違う価値観や文化が共生していくためには、寛容の精神の陶冶も不可欠のはずである。

taiwan1.jpg

余談になるかもしれないが、実はここ数年間、台湾でも「和解共生」の理念を唱える声がある。なぜならば、この十数年来、台湾ではいわゆる外省人(1949年に大陸から蒋介石政府とともに移住した人たち)と本省人(今から四百年ぐらい前に大陸から移住した人々)との対立があり、選挙のたびに社会が対立を増している(筆者のような部外者から見れば、カール・シュミット式敵・味方の原理が応用されている感じさえする)そのために、「和解共生」というスローガンが生まれたわけである。最近の二度目の政権交代により、前よりは政治的対立が少し弱まっているようだが、問題の解決まではまだ道のりが長いようである。但し、この十数年の間、何回も緊張が高まった台湾海峡は二度目の政権交代により、だいぶ緩和する方向に向かっていて、中国大陸と台湾との新しい平和共存の道が模索されている。台湾内部の対立など、様々な難題を抱えているが、東アジアないし世界にとっても、台湾海峡が平和でありつづけることは何よりであろう。そういう意味でも我々の「共生哲学」シンポジウムが台湾学界の中枢で開かれたことは大いに意味があったと思う。

kobayashi%3Brin.jpg

小林リーダーはブログで台湾大学哲学部林義正教授との楽しい対話を紹介したが、その林教授は筆者と雑談した時、台湾は東西の様々な文化が入っているところであると誇らしげに説明してくださった。自称台湾・ウォッチャーの筆者は勿論知らなかったわけではないが、林教授の御指摘でさらにその認識を深めた。中国大陸が経験した文化大革命がなかったので、伝統文化の断層が無く、文化の母体として非常に大切にされている(因みに中国古代文明の結晶というべき代表的な文物は殆ど台北の故宮博物館に収蔵されている)。同時に日本文化や西洋文化もどんどん入っている。今は金融恐慌に見舞われていて、ちょっと元気がないけれども、経済的にも政治的にも社会が成熟してきているので、その底力は過小評価されるべきではない。

台湾大学哲学部を訪れた初日はちょうど大学がある台北市大安区の国会議員の補欠選挙がある日だった。発表者の一人で司会も担当してくださった杜保瑞先生が「これから投票に行くんですよ」と話したその素敵な笑顔が筆者の脳裏に焼き付いている。そのような経験を一回もしたことがない私にとってはとても忘れがたい微笑みであった。ちょっとジェラシーさえ感じる瞬間であった。そのような台湾で、我々の今回の共生を主旨とする学術交流が出来て非常に良かったと、つくづくそう思う。

(文責:王前)

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 台湾印象記―百「閲」は一見に如かず
↑ページの先頭へ