【報告】ワークショップ「乳房はだれのものか」
3月17日にワークショップ「乳房はだれのものか」が行われた。
本ワークショップは、木村朗子氏(津田塾大学)『乳房はだれのものか―日本中世物語にみる性と権力』(新曜社, 2009年2月)の刊行を受けて、本書の書評を通して、ジェンダー/セクシュアリティー論の現在を議論する場として設けられた。ワークショップは著者の木村氏、田崎英明氏(立教大学)、生方智子氏(立正大学)を迎えて鼎談の形で行われた。
ワークショップでは、近現代文学を専門とし、ジェンダー/セクシュアリティー論、身体論で数多くの論考を執筆する生方智子氏が、木村氏の著書において重要な意味づけが与えられている乳母の主体の問題として、木村氏の論を同じく乳母の役割に焦点を当てたガヤトリ・C・スピヴァクの「マハスウェータ・デヴィ作『乳を与える女』」(『文化としての他者』紀伊國屋書店, 1990年所収)との比較を行い、両者が交わる論点を提示して議論を牽引した。
同じくジェンダー/セクシュアリティー論、身体社会論、身体政治論で多くの議論を展開する田崎英明氏は、木村氏が提起する「乳房はだれのものか」という問いを西洋の文脈において考察し、精神分析学において欲望と制度の問題が乳と乳房とを差異化する形で議論されてきたことを指摘した。
「乳房はだれのものか」という問いに対する生方氏、田崎氏の応答はそれぞれ、近代もしくは西洋の社会構造を参照枠とする。それに対して、乳房を乳母(めのと)のものと位置づける木村氏の議論は、中世日本の社会をもとにして成り立つ。ここで問題となるのは、中世の社会を近代のそれとは異なるありかたとし、近代の主体/アイデンティティーが成立せず、セクシュアリティーが制度として構成されると論じるときの中世という過去の位置づけである。奇しくも、『乳房は誰のものか』において、木村氏はスピヴァクの議論を批判的に捉えることから論を展開している。
中世の性と権力との配置は、知の考古学としてのみ捉えられる制度であるのか。それとも、それを通じて、私たちが置かれている近代社会が捉え返される可能性をもつのか。「乳房は誰のものか」という問いかけに、「母のもの」でも「女のもの」でもなく、「乳母のもの」と答えてみる。可能性としての中世は、そうした応答の中から開かれる地平でもあろう。
(文責:内藤まりこ)