【報告】大貫隆「イメージの星座―イエスとパウロ」
3月3日、アドミニストレーション棟学際交流ホールにおいて、東京大学大学院総合文化研究科教授でUTCP事業推進担当者でもある大貫隆先生の最終講義が行われた。天候の悪いなか――夜には雪になるという予報であった――、およそ200人の聴衆が集まり、たちまちのうちに学際交流ホールは満席となった。
まず大貫先生は、2003年に上梓された『イエスという経験』の内容、すなわち、イエスが「神の国」について編み上げていた独特なイメージのネットワークについてお話を始められた。巧みな「譬え話」を用い、ファリサイ派やサドカイ派との論争ではスピード感溢れる切り返しを見せたイエスだが、その彼が「神の国」のことを述べ伝えるために用いた言葉の比喩性、映像性、あるいは「表象文化」性は注目に値するものであり、イエスは「神の国」をひとつのイメージのネットワークとして、すなわち、複数のイメージの繋がりとして「見ていた」のではないかというのが大貫先生のご主張である。
このことを検証するために、大貫先生は、福音書の中から、これまであまり扱われてこなかった箇所、膨大な蓄積を誇るこれまでのイエス研究で「屑」のように扱われてきた箇所を引用し――したがって、私のイエス研究は「屑鉄ひろい」だとおっしゃった!――、サタンの墜落、天上の祝宴、過去、死人の復活、宇宙の晴れ上がり、「人の子」到来とさばき、未来、現在、陰府という9つのイメージのネットワークを再構築された。このようなイメージのネットワークとしての「神の国」をイエスは決して無から創造したのではなく、同時代のよく知られていた表象から構築したのであり、そのネットワークの中で個々の表象に新たな意味を与え直したのである。大貫先生はここで、イメージのネットワークとしての「神の国」に、安価な精神主義的・道徳主義的な解釈を施すのではなく、それを異質なものとしてそのまま受け容れる必要性を説かれた。
続いてパウロに関する考察に話は移る。ここで問題となるのは、「十字架の神学」と呼ばれるパウロの確信である。ファリサイ派のファンダメンタリストとして人一倍熱心に律法の遵守に励み、ファリサイ派のエリートたるべく他者と競合していたパウロは、ある日突然キリスト教に回心する。パウロは、自分が肉体的には生きているが、神との関係に関しては、「無なるもの」、「存在していない」者でしかないと思い苦悩していた。というのも、自分が行っていた律法主義による他者との競争が、結局は人間の根源的エゴイズムを助長するものであり、「罪」であることに気づいたからである。パウロはその時、エルサレム教会の信徒たちから伝え聞いていたイエスの十字架の刑死という出来事に思い至る。そして、生前のイエスに会うことのなかったパウロは、すでに起こってしまったイエスの処刑を、神が「独り子」を(すなわち神自身が自分を)屈辱の極みに放棄した出来事だと捉えたのである。つまり、それまで律法遵守を求めて止まない恐るべき存在であった神は、イエスの十字架によって、律法主義を廃止したのであり、それは人間の罪と死とを克服するための神の新しい行動の始まりなのだとパウロは確信したのである。パウロの苦悩に先立って、イエスの処刑がすでに律法主義の廃止と、それに基づいて新しく造り直された人間の未来とをすでに提示していたことになるのだ。
「今、この時」から見た過去がすでに来るべき未来を内包しているというこの時間構造は「予型(テュポス)論」と呼ばれる歴史解釈である。パウロにとって、「今、この時」とは、イエスの十字架という過去の一回的出来事の予型(先立って示していること)であり、それは現在に継続しながら、未来へ向かって進んでいる。ここで大貫先生は、この予型がアレゴリーとは異なることに注意を促される。アレゴリーは出来事の歴史性ないし一回性を捨象し、人物や事物のひとつひとつに何か特定の意味を振り当てる行為に他ならず、かたや予型とは、現在のイメージ(人、事物、出来事)と、過去のイメージとを歴史性を損なうことなくショートさせ、一瞬のうちに双方のさまざまなイメージを「星座的布置関係」に置くことである。
アガンベンの指摘に賛成して、このパウロの予型論がベンヤミンの「イメージの星座的布置関係(静止状態の弁証法)」と同じ構造であることを検証された大貫先生は、さらに一歩踏み込んで、講演の冒頭で展開されたイエスの「神の国」のイメージ・ネットワークこそが、ベンヤミンの「イメージの星座的布置関係」であると述べられ、その「神の国」では、アブラハム、イサク、ヤコブは存在していてもモーセ(=律法)が不在であることを指摘された。
最後に、大貫先生は、聖書学と現代思想研究とのあいだの相互交流の必要性、あるいは相互交流がもたらす豊かさを指摘されて、最終講演を終えられた。
(文責:桑田光平)