報告 「世俗化・宗教・国家」 セッション16
1月19日、「共生のための国際哲学特別研究VI」第16回セミナーが開かれた。
今回扱う著作はFrançois Jullien, Fonder la morale : dialogue de Mencius avec un philosophe des Lumières (Paris, 1996)の日本語訳『道徳を基礎づける : 孟子 vs. カント、ルソー、ニーチェ』(訳者:中島隆博, 志野好伸, 講談社, 2002)である。
報告者の岩堀兼一郎(地域研究M2)はまず、この本を選定した理由について述べる。彼は、先のボベロ氏のシンポジウムの機軸であった「21世紀ライシテ宣言」を受け、ボベロ氏の掲げる「ライシテ」と「道徳」との密接な結びつきを考える。「ライシテ」・「世俗化」の進展は「道徳」の創造・基礎づけ作業と平行したのであり、そこにこの世俗化ゼミで同書を取り上げる意味が在るとのことであった。
訳者の表現を借りれば、「ジュリアンの問いかけは、道徳を正当化するのでもなければ、それを否定するのでもなく、道徳に対する問いを再び動かすこと」であった。彼は、道徳を基礎付けるなどというあまりにも今日的でないテーマに、比較の視点を持ち込むことでアクチュアリティを持たせる。ヨーロッパの他なる思想、即ち孟子の思想を持ち出して西洋の形而上学的な枠組みを相対化していくのである。
ヨーロッパでは神の権威が世俗化によって後退すると、それに裏付けられていた道徳を基礎付ける論理が新たに求められた。カントやルソーによって展開されたその論理はしかし、ニーチェによって覆される。彼は道徳の背徳的な本質、基礎付けの後天性を告発したのである。道徳の基礎付けを思い上がりと評すニーチェは、道徳に関してその比較を確立することこそが必要だと説いた。著者はこれを踏まえ、ヨーロッパの遥か遠方、中国は孟子の思想を俎上に載せ、比較を試みる。ただし著者はニーチェに盲従してはいない。彼の比較の試みは道徳を基礎付けるためのものなのだから。
著者に依れば、孟子もルソーも人間の道徳性について、同じ経験から出発している。それが他人を脅かすものを目の前にした動揺である。例えば、今にも井戸に落ちようとしている子供を見たときの「忍びざる反応」、西洋的な表現で言う「憐れみ」がそれである。しかし、道徳を憐れみに基礎付けようとしたヨーロッパの思想家たちは個人主義的見解に陥り、さらにはそれを神秘化するに至ってしまう。自他の分離を自明なものとする西洋思想にとってこの帰結は必然であった。一方、孟子の「忍びざる反応」という概念はこのような困難を免れている。孟子、あるいは中国思想において個人は確かに存在するが、それは自我という孤立したパースペクティブの中で知覚されるものではなく、相互の関係性の中で理解されるものなのである。
以上のように、中国思想によって西洋哲学の枠組みの相対化を試みる著者が最終的に扱うのは、幸福と道徳の関係、即ち徳はそれに見合う幸福によって報われるのかという問いである。報われない現状を見据えた上で、カントやルソーは「別の世界」で幸福になれるとし、孟子はあくまで世俗において幸福が実現されるとした。言うまでも無く、西洋側の主張は神を意識せざるを得なかった。一方で、「天」に依る孟子の主張もまたそれと同じ方向に傾いていく。つまり両者ともこの議論においては「道徳的な人格」を持つ無制約者へと繋がっていくことになるのである。
本論の要約の後、報告者から何点かのコメントが為された。特定の伝統/思考体系に依らぬ「道徳についての語り方」を編み出したことを評価できるし、西洋における道徳の基礎を問い直す部分は世俗化ゼミにとって有意義なものである、と。一方で、著者の言う中国思想におけるXの欠如は必ずしも中国におけるXの欠如ではないという指摘や、「道徳の主体」に関する議論が無いという指摘もあった。
次に報告を踏まえて、議論が部屋全体に広げられた。そこでは、道徳を基礎付けることの意義についての問いが出され、「世俗化の時代」の道徳について議論が展開されていった。それは既存の宗教的なものの読み換えなのか、それとも全く新しいものなのか。それぞれ専門の地域について言及があり、フランスではその双方がありえる一方で、中東においてはイスラームを読み換え、現代倫理として提示することが多いとの指摘があった。さらに著作の議論について、なぜ孟子なのか、孔子や荀子を扱って同様のことを試みたような作品はあるのか、邦題は「孟子vsカント、ルソー、ニーチェ」であるが、ニーチェは論駁されていないのではないか、という疑問も提示された。
(文責:諫早庸一)