報告 「世俗化・宗教・国家」 セッション17
1月26日、「共生のための国際哲学特別研究Ⅵ」第17回セミナーが開かれた。
今回は、今年度最後のセミナーであった。報告者である金原典子(東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻修士課程)は、池上良正ほか編『宗教史の可能性』(岩波講座「宗教」第3巻、岩波書店、2004年)所収の論文について報告を行なった。彼女が取り上げたのは、島薗進による「序論」と遠藤潤による「『神道』からみた近世と近代―社会的文脈におけることばの意味をめぐって」である。
島薗は、キリスト教、イスラームなどの世界宗教と自然宗教を対置させ、前者を後者よりも高等な存在とみなすような宗教進化論に基づく叙述が大勢を占めていた従来の宗教史を批判しつつも、宗教の人類史への登場やその後の歴史においての影響を論じることで、宗教史はその意義を保ちうると主張する。そのさい、彼は人類の宗教史の全体的理解、すなわち普遍的な宗教史叙述を志向するよりも、むしろ諸「宗教」の多様性を補足しうるような個別具体的な叙述の必要性を提唱する。
遠藤は、明治時代とそれ以前においては「神道」という語が指し示す意味・対象が異なっていたことを指摘し、近世と近代の間における断絶を見出す。近世においては複数の社会集団や教説など様々な含意を有していた「神道」という語は、近代において初めて、その国教化を意図した明治政府が国民教化のための宣教組織を編成したことに伴い、仏教などと同列の特定の教団組織を指すものに変容していったことが指摘される。
金原は、特に遠藤論文についてコメントし、人びとの信仰や体験としての「神道」についての視点を導入する必要性を指摘した。一方、報告後の質疑応答においては、島薗論文に関する議論が大いに盛り上がった。歴史叙述における普遍化、一般化への志向と個別具体的な事実への志向のどちらを重視するべきかという論点は、本プログラムの趣旨とも深く関わるものである。安易な一般化を避けるうえで、歴史研究における多様性の追求することの重要性を認めながらも、世界規模、地球規模での歴史叙述の可能性を模索するべきではないかという羽田教授のコメントをもとに、主に歴史研究における「世界史」の可能性などについて活発な議論が展開された。
(文責:勝沼聡)