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時の彩り(つれづれ、草) 059

2009.01.30 小林康夫

☆ 禅僧もどき

南山大学に滞在中のジョン・マラルド先生をお招きして、「日本哲学の約束」という希望に満ちたタイトルのもと2回のレクチャーをしていただきました。

わたしは2006年の秋、ベルリンにおけるUTCPカンフェランスのときにお会いして以来。日本哲学とはいえ、孔子、孟子、老子からはじまる東アジアの思考の歴史の全体を覆うスケールの大きなパースペクティヴのもとで、Autonomy、Normativity、といった西欧哲学の根幹をなす基本概念を再定義しようという野心的な試み。驚くべき博覧強記。いくつものトポスをつないで少しづつ核心に迫っていく思考の、ゆったりとして、しかし靭い歩み。いろいろ学ぶことが多かった。

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だが、同時に、マラルド先生のように、西欧文脈から出発して、東アジアの思考を十分に理解咀嚼し、そこに「新たな希望」を見出そうとしている方をお迎えすると、わたしのなかの芝居心みたいなものが疼いて、つい、西欧的な哲学者としてではなく、(もちろん括弧つきだが)「東洋」の思考を体現する人間として自分を演出したくなってしまう。なにか先生がいままで出会ったことのないタイプの反応を返すのが、hospitalityだと思ってしまうのだ。

というわけで、昨日の会では、江戸の禅僧、鈴木正三のエピソードをめぐって、ついそれを「公案」的に把握する解釈を差し出してみたり、ふと気がつくと、なんだかインチキ禅僧みたいな喋り方をしている自分がいておかしい。講演のあとの会食の席でも、「わたしの死」というトピックについて、もちろんハイデガーも横目でにらみつつ、対話が弾んだが、そこでもわたしはちょっとzenだったかなあ。「西西」ではなく、少しは「東西」の対話が演出できていたらいいのだけど……

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