報告 「世俗化・宗教・国家」 セッション15
12月15日、「共生のための国際哲学特別研究Ⅵ」第15回セミナーが開かれた。
今回は、横山隆広(東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程)による、藤原聖子『「聖」概念と近代―批判的比較宗教学に向けて』(大正大学出版会、2005年)についての報告が行なわれた。本書は、著者の博士論文を基に、現代では世俗と対置して用いられることが自明視されている「聖」概念の近代性について多角的に論じたものである。今回の報告は、「聖」概念を最初に用いた代表的な研究者であるエミール・デュルケムとルドルフ・オットーの「聖」概念と、その隣接概念である「価値」「力」「体験」「感情」について分析を加えた第一章(反転図形としての「聖」概念」)と第三章(デュルケム・オットーの宗教理論における「聖」と「体験・感情」)に焦点を絞って行なわれた。
横山によれば、第一章で藤原は、彼らの「聖」という価値、あるいは宗教を「聖」とみなす価値判断は、それが特定の感情・行動を誘発することを強調する点において反主知主義的であることを指摘している。一方で、自然科学の発達が生み出した物理的力の概念を意識せざるを得なかった19世紀の時代状況の影響の下で、特にデュルケムが学問的考察の対象としての宗教的力を物理的力に準えている点で、彼の「力」概念には非合理主義とは一線を画す特徴が備わっていたとする。このような、彼らの「聖」概念における反主知主義的かつ合理主義的特徴を、藤原は形式主義と呼んでいる。
第三章においては、第一節で指摘された形式主義的特徴が、彼らの「体験・感情」概念においても見られることが論じられる。当時、体験や感情は個人的・非合理的なものであるとみなされたが、彼らによれば宗教的な体験・感情は、追体験や感情移入を通じて個人的なものではなく集団的なものとなり、社会的影響力を有するがゆえに合理的であるとされる。一方、彼らはその宗教的感情の内実を必ずしも理解する必要は無いとしている点では反主知主義的である。すなわち、ここでも形式主義的特徴が看取される。
横山は報告後のコメントとして、デュルケムの感情概念における「集合」の意味の曖昧さについて指摘したほか、魚木忠一や鈴木大拙といった日本の宗教研究とデュルケム・オットーとの比較研究の可能性について言及した。
その後の議論においては、横山が第一章と第三章に焦点を当てて報告した意図について質し、むしろ後半部の宗教学の再定位について論じた部分を扱うべきであったのではというコメントや、本書においても批判されている超歴史的な「宗教」理解に基づく魚木や鈴木の議論を取り上げることに意味があるのか、という批判などが出された。
(文責:勝沼聡)