【報告】フランソワ・アルトーグ講演会「私たちとギリシア人」
2008年12月8日、フランスの古典学の泰斗フランソワ・アルトーグ氏(社会科学高等研究院教授)による講演「私たちとギリシア人」がおこなわれた(司会:高田康成)。
アルトーグ氏はまず、第二次世界大戦後のギリシアのポリス解釈に対して、ハンナ・アーレント、コーネリウス・カストリアディス、ジャン=ピエール・ヴェルナンから寄せられた異なる解答を取り上げる。彼らの立論を比較することで、古代ギリシアをめぐる問いの現代的な布置が浮かび上がる。
1930年代から第二次世界大戦にかけての「暗い時代」を経たアーレントは、全体主義に対抗する参照項として古代ギリシアのポリス―「失われた財宝」―を探究する。言葉と行動を市民らが共有するその民主的世界は、現代社会において再建するべきモデルとみなされる。カストリアディスは古代ギリシアに諸個人と諸民族の明晰な行動の範例を確認し、これを政治的なものの「胚種」と考える。ただ、古代民主制が潰えたのは、アテナイ市民の過度の驕りによるものであり、そこには自己限定のための諸条件、自己-制度化の過程が欠けていた。ヴェルナンにとって、君主制権力に対立する古代民主制は、我有化されえない権力の中心との関係において市民らが同等であるという状態である。このように、これら三氏にとって、ギリシアのポリスは、公共的な言葉の価値が尊重される空間を互いに共有する点で重要視されたのである。
次にアルトーグ氏は、より広い視座から、古代ギリシアをめぐる1980年代および90年代の知的状況を概観し、この状況が人文学(とりわけ古典学)に与えた影響を考察する。歴史学者のアルトーグ氏が批判的に診断するのは、現代の私たちの経験において「現在」が圧倒的な優位を占めている状況である。未来の価値は貶められ、過去の事実は平板化され脱コンテクスト化されて引用される。過去と未来との解体された関係はただ現在時において沈殿する。こうした「現在主義」が古典学のみならず、各専門科目に浸透してはいないだろうか。
こうした「現代主義」に対してなしうることは依然として、過去に対する回顧的な眼差しを実践することであり、資料や歴史を辿り直すことだろう。ただ、過去を自らの起源として郷愁とともに同一化するのではなく、古代の民主制と現代の民主制、古代の帝国主義と現代の帝国主義、ギリシアと中国というように、過去を参照しつつさまざまな〈あいだ〉で思考することが重要なのである。古典学の務めは、あらゆる「現在」から解放された創造的な空間を創設し直す点にあるのだ。
質疑応答の時間では、講演題目の「私たち」とは誰かが問われた。それは現在の「ヨーロッパ人」に限定されるのか、それとも現代に生きるすべての「私たち」なのか。いずれにせよ、アルトーグ氏が東京でこの話題を提供したことで、聴衆はこの定式「私たちとX」にいったいいかなる言葉を当てはめるべきなのかを深く考えさせられた。
(文責:西山雄二)