【報告】時代と無意識セミナー「(非)人間化への抵抗」
2008年11月12日、「時代と無意識」セミナーでは、ジャン=フランソワ・リオタール『非人間的なもの』(1988)をテクストに、星野太さん(東京大学大学院博士課程)による発表「(非)人間化への抵抗:リオタールによる「発展の形而上学」批判」が行われた。
人間主義/非人間主義という対立は、20世紀後半の思想史において大きな争点のひとつとなっている。1980年代におけるリオタールの仕事は、そのような対立図式のフレーム自体を問い、「非人間的なもの」の概念の両義性を明らかにすることを主要な課題としていた。その両義性こそが、「発展の形而上学」とリオタールが呼んだシステムを批判するための回路となる。「発展の形而上学」とは何か。発展とはちょうど「速読」のように時間の節約を要求し、内的な力学によってのみ加速・拡大し、みずからを再生産するイデオロギーである。発展の非人間性に抵抗すること、リオタールはそこに、そしてそこだけに「政治」の可能性をみていた。では、いかにして発展の形而上学に抵抗することが可能なのか。
発展とは異なるもうひとつの非人間性、「幼児期=言葉なきもの」の概念は、そこで重要な抵抗点となる。幼児は言語や社会制度を習得することにより理性をもった大人となるが、リオタールは大人における幼児期の残余を問題とする。成人期においても、たえず変化する制度へうまく適合しつづけなくてはならないし、またその制度に対する苦痛や批判、脱出への誘惑から逃れえない。また、制度に組み込まれている文学や芸術、哲学では、成人期にも残存する未決定なもの、幼児期のさまざまな痕跡が見られる。芸術は、その幼児期に対する負債の証言なのである。
星野さんが注目するのは、このような「非人間的なもの」の問題圏における、資本主義の位置、そして前衛芸術との共犯関係である。リオタールは『Des Dispositif pulsionnels』(1973)において〈資本〉とは終わりも目的もないメタモルフォーズであると提起していた。それは旧制度を溶解し、たえず解体され再建される固有の諸制度の自己溶解としてはたらき続ける。そして資本主義とは、無限な富と力というひとつの理念にそって統御される経済であり、その点において崇高なものをもっている。一方で前衛芸術とは、このような資本主義とまったく切断された実践ではない。資本主義によって動かされる懐疑と破壊の力によって、芸術家は既存のルールへの拒絶、新たな表現手段・様式・素材を実験する意志へと駆り立てられるのである。
芸術や思想が行う抵抗の政治は、この意味で、資本主義が切り詰めて制御する時間のエコノミーのなかに、調停不可能な異質性や出来事のような何かを到来させることにある。それはもちろん、エコノミーを逸脱した長大な作品を制作することや、コードを攪乱し判読困難にすることで、表象にたえざる遅延と亀裂をもたらすような戦略だけではないだろう。むしろ、閾ぎりぎりの一瞬でさえ思考可能なものにすること、調停不可能なものにもなお結合する回路の場を生みだすこと、そのような抵抗の実践(あるいは中断のリズム?)こそ、人間主義と非人間主義の双方への批判たりうる、思考のための、たえず変容するシステムとなるに違いない。(報告:荒川徹)