【報告】時代と無意識セミナー 10月15日
2008年10月15日、「時代と無意識」セミナーの夏休みを挟んで最初の回は、小林康夫拠点リーダーによるアルゼンチン渡航の報告で幕を明けた。今回はそこで行われた2つの発表に基づいている。哲学や人間概念が近年ますます直面している閉域の限界そのもの、そしてその突破可能性を、仏教および「非人間的なもの」の思考を通じて考察する試みである。
2008年10月1-3日、アルゼンチンのバリローチェにおいて「第9回バリローチェ哲学コロキアム」が開催された。そのうち、10月2日にはUTCPセッション「アジアの思考のさまざまな可能性・もうひとつのメタ哲学」が行われ、セッション全体については西山雄二氏による報告がある。そこでの小林氏の発表は「メタ哲学としての佛教の可能性」であり、すでに雑誌『未来』(2008年10-11月)に、英語による発表原稿の元となったテクストが掲載されている。
「わたしは考える」という、哲学が持つこの個別的内在性の原理は、暴力による有機体と環境の破壊が現実化させた「世界の終わり」を前にして、いまだ有効なのか。また、ポスト構造主義以降の哲学が形成した地平の閉域を、いかにして突破するのか。小林氏はこれに対し「仏教にメタ哲学的可能性はあるか」という問いをもって応じる。ブッダの教えは、いわば世界内存在からの脱我を説いたものであり、そのためにさまざまな識別作用を停止し「何も行わないことを行う」、非実践的な実践という困難な道を示していた。自我を無化させることによって非-現前してくる「空」──小林氏はそこに、内在性の問いを脱構築する可能性を見出す。また、実存からの脱出が、人間の歴史からの脱出を同時に意味するならば、仏教の思考は、暴力の場にほかならない人類の歴史を横断し超えていく道としての可能性を示す。そのような「空」による脱構築は、論ずること=理論的に解明することではなく、「ともに-構成する」ことの意をはらんだ「行」という、なにもつくらないことの(非)実践である。存在が埋め込まれた「行」の根源的な共同性を浮かび上がらせることで、仏教には人類の歴史を垂直的に横断する可能性がある、小林氏はそう結論づける。
もうひとつは、2008年10月6-8日、アルゼンチン国立図書館で開催された国際シンポジウム「大学の哲学 合理性の争い」における、「理性と生のあいだ──カオスの合理性の方へ」と題された、人文科学の危機をめぐる問いである。こちらも全体については西山氏による報告がある。
「システムの思考」と「人間の思考」はどのように異なっているのか。人間の思考とは、システムに還元不可能な残余として定義されるようにみえる。だが重要なのは、「責任」をめぐる差異である。システムの思考は、つねに限定や但し書きが付きまとい、すべてを問題とすることはない。一方、人間の思考は「すべてについて語る」という責任を有している。人間とそれ以外のものを含めたすべてを思考すること、そこにこそ人間の思考の可能性が有する。
ふたつの発表は、私には、思考と行為の特殊な紐帯をめぐっていたように思われる。「責任」とはそれ自体で行為ではないものの、すべてについて応答する行為のための態勢をもつ、ということにほかならないからだ。われわれにとって重要なのは、理論家や知識人であることではないだろう。むしろ、地球外生命体にさえも応答可能であるための、思考と身体を獲得することである。
本期のセミナーは今後何度か、ジャン=フランソワ・リオタール『非人間的なもの』(1988)を通じて、限界をめぐる考察を展開させることになる。(報告:荒川徹)