【報告】国際フォーラム「哲学と教育―哲学への権利」第2日目
UTCP国際フォーラム「哲学と教育―哲学への権利」の第2日目「高等教育をめぐる各国の事情と人文学の未来」はパリの国際哲学コレージュで開催され、イタリア、日本、フランス、アルゼンチンの研究者が発表と討議をおこなった(司会:小林康夫)。
マルコ・フィローニ(ミラノ理工科学院):「イタリアの大学における抵抗的断絶」
フィローニはまず自国の悲惨な現状について証言した。高等教育予算の低さ(GDP比で0,76%)、欠員ポストの漸進的削減、教授陣の高齢率の高さ(60歳以上の教員が25%)……など、イタリアでは既得権益を保持する者がますます得をし、それ以外の多数の若手はそのツケを払わされる。たしかに高等教育改革は実施されるものの、既に死に絶えた高等教育体制をいくら改革しても無駄であり、フィローニは革命的な発想が必要だとさえ言う。
彼はエリック・ヴェイユの大学論を引きながら、人間の行動の価値と意義を見定めることが人文学の役目であり、その意味で、人間は研究対象ではなく、決断や反省の主体でもありうるとした。人間が問いを立てる伝統と権利を取得するために大学は必要である。大学を介してこそ、社会はその本質、欲望、恐れ、希望を見出すことができるのであり、それゆえ、病んだ大学の革新は社会の健全さにとって重要なのである。
西山雄二(UTCP):「大学の名において私たちは何を信じることを許されているのか」
西山はまず、日本の国立大学をめぐる改革(一般教育科目と専門教育科目の区分の廃止、独立行政法人化)を自由と責任という観点から紹介し、大学と社会の関係の問いを提示した。1990年代、一橋大学学長だった阿部謹也は俗社会のなかにとどまりながらも大学は聖なる雰囲気を保持するべきだとし、他方、『知の技法』三部作を刊行した小林康夫は知識の枠組みそのものの行為遂行的な変容とともに大学の知を社会に対して開こうとした。だが、とりわけ独法化以後、内実のないエクセレンス(卓越性)概念によって、大学は社会‐経済的な論理に浸透され、そうした大学と社会、内部と外部という視座から問いを立てることができなくなる。
人文学は競争原理に曝されるなかで、一方で臨機応変に価値を増加させ、過剰なまでに拡張することも、他方で、有用性や効率性とは相容れないと自己主張することもできる。だが、あらゆる価値を飲み込むエクセレンスの尺度はこうしたいずれの方向をも包括するのであり、ここに現在の人文学が置かれた困難なダブルバインド状態がある。
グローバル化時代において、大学および人文学の役割や責任とは何か。人間が内在的な仕方で人間の営みを無条件的に探究することは、人間が人間を信じる力を絶やさないことであり、そこに人文学の使命はある。また、カントの『学部の争い』が示したように、大学の意義は、真理をめぐる合法的な争いを社会の至る所で可視化する点にある。新自由主義的趨勢が人々の生存競争を加速させるなかで、大学の責任とは合法的な争いへの信を残しておく端緒となることである。小林康夫が知識から行為へ、認識から実践へと大学の問いを移行させたのだとすれば、西山はさらに、研究教育への信という地平において大学の困難さを思考しようとするのである。
ジゼール・ベルクマン(国際哲学コレージュ):「グローバル化体制における人文学の批判的再開」
ベルクマンはグローバル化はいかにして研究制度を、人文学との関係を根本的に変容させているのか、と問う。実際、人文学は、一方で知の官僚主義的運営に曝され、他方でその伝統の喪失が人間の新たな規範に置換されるというダブル・バインド状態にあるのだ。
「文芸」が「科学」や「哲学」と区別され、「文学」として成立する歴史的過程は複雑である。フランスでは17-18世紀にかけて、イエズス会が文法学と修辞学の媒介をなす学として人文学を制度化した。19世紀後半になって、(現用言語による)近代人文学と科学的人文学が区別されることで、古典人文学という表現が登場した。人文学の革新を考えるならば、まず、そうした人文学の歴史的規定性を考慮に入れる必要がある。
18世紀研究者のベルクマン氏は人文学を批判的な仕方で再開するために、デリダの立論にしたがって、理性の進歩にもとづく穏当な啓蒙概念ではなく、人間が人間を問い直す根源的な批判の力として「新たな啓蒙」を提起する。「新たな啓蒙」に必要なことは、光の明証性から残余し抵抗するもの、弁証法的に止揚されない否定的なもの、歴史的に反復される亡霊的なものを考慮することである。
グローバル化の時代において、世界市民(コスモポリタン)とは誰を指すのだろうか。また、グローバル化に対抗するインターナショナルなものをいかに思考することができるのだろうか。デリダはプラトンのコーラ概念に着目し、あらゆる実定的な場所を生み出す場という問いを提起した。グローバル化体制が全世界的な場をなしているならば、思考の経験をいかなる場所において生起させるのか。こうした場の偏差を思考することが、批判的に再開される人文学の掛け金となるだろう。
以上の3名は各国の高等教育事情を提示した上で、大学や人文学の役割を自分の研究の視座から語った。3人とも博士論文を執筆し、博士号を取得し、単著を出版し、すでに非常勤職で講義をしているが、大学での正規常勤職をいまだ得られていない。同じ境遇にある3人の発表においては、大学の困難と問いをめぐる各々の情動が共鳴し、ある程度の統一感が感じられた。
(以上文責:西山雄二)
フランシスコ・ナイシュタット(ブエノス=アイレス大学、CIPH):「現代の大学におけるコスモポリタニズムとグローバリゼーション」
政治・経済制度がグローバル化しつつある現代にあって、教育・研究制度のそれもまた、不可避的・不可逆的であるようだ。そこでフランシスコ・ナイシュタット教授は、次のように問うことで自身の報告を始めた——現在の大学をめぐるグローバル化の光景(学問の共通語としての英語、留学制度、共同学位プログラム、世界基準に照らして卓越した教育・研究拠点など)はしかし、いつかどこかですでにわれわれの見聞してきたところのものではないか。言うまでもなくそれは、〈大学〉という制度が人類史において初めて誕生した中世ヨーロッパでのことである。かつて大学では、ラテン語が学問の共通語とされ、万国教授権(ius ubique docendi)を与えられた教師は、学生とともに文字どおり各地の大学を渡り歩いた。昨今かまびすしい教育・研究制度のグローバル化とは実際のところ、かつてわれわれ大学人の父祖たちが辿ってきた道なのだ、ならばその再現の難しいことを嘆いても、その弊害をいまさら怖れることはないだろう。教授はしかし、次のようにも問うた——このような〈類比〉と戯れることでわれわれは、実は重大な範疇誤謬を犯しているのではないか、すなわち、〈グローバリゼーションmondialisation〉と〈コスモポリタニズムcosmopolitisme〉とを混同しているのではないか、と。以上のような問いかけから始まった教授の報告を振り返るなら、次のようになるだろう。
まず抑えておくべきは大学に関して、コスモポリタニズムはこれを「実存的existenziell」な問いとして論ずるが、グローバリゼーションはこれを「事実性Faktizität」の問いとしてしか論じえないということである。大学人はコスモポリタンであることをみずから選択するが、グローバル化されることを選択することはない。グローバリゼーションは、大学をとりまく現状=事実を指示するだけだが、コスモポリタニズムはそれ以上のことを大学について示唆しうるのだ。
この点を踏まえたうえで、カール・シュミットの『大地のノモス』を援用しつつ、グローバリゼーションと主権の関係が論じられた。シュミットによれば国家主権の成立は、人間による陸地の取得と分割とに由来する。ところがグローバリゼーションは、経済活動においてとりわけそうであるように、主権の成立が陸地に依存しているという点を乗り越えたところに発生する。そのことが意味するのは、かつてとは比べものにならないほどの速度と射程をもって変化する〈異常事態〉に主権が対峙しなければならないということである。この場合、主権はそのような事態について、かつてのようにみずからあれこれの決定をくだすことができなくなる。なぜならグローバリゼーションとは、国家主権の脱‐主権化に他ならないからである。ならばそのあかつきに、かの異常事態について決定をくだす〈正当なるもの〉について何ほどかを語る術がわれわれには残されているのだろうか。
グローバル化時代とはいずれにしても、あれこれの危機に対処しうる正当なるものの〈正当化の機構〉が自明でなくなる時代のことである。ならばグローバリゼーションではなく、コスモポリタニズムをこそわれわれは追い求めるべきではないのか。なぜなら後者こそが、世俗化されたかぎりでの〈正当なるもの〉の地平をふたたび拓き、〈政治的なるもの politique〉への志向を可能にするからだ。しかるに大学におけるコスモポリタニズムとは何か。実はそれもまた、すでにわれわれが見聞してきたところのものである——大学人は1968年5月、〈世界kosmosの市民politês〉の立場から、大学の政治的な次元における変化を地球規模で模索したのではなかったか。だからグローバリゼーションが席巻するいまこそ、「事実性 factualité」は「現実性 réalité」と異なることを学んだうえで、大学の機能を世界的な文脈における〈市民/ポリスをめぐることがら politique〉の意味を問うことへ集中させなければならないのだ。
教授の報告は、二日間におよんだフォーラムの白眉を飾るのにふさわしいものであった——彼にそう問いかけられるまでフォーラムの参加者は、その趣旨書に書き込まれていたグローバル化時代における教育・研究制度の〈脱構築〉について論じながら、かのグローバリゼーションが大学の発生時にその予定調和的な要件をなしていたかもしれないことに気付かなかっただけに。だから、教育・研究制度のグローバル化は制度の〈外側〉から押しつけられたものであると理解されていたし、その点を前提に議論が進んでいったようにも思われる。しかし、かのグローバル化が実は制度の〈内側〉からの要求だったとなぜ言えないのか。そのような問いかけこそが、つまり、制度の臨界点を制度の外側からではなく内側から論ずることが、すぐれて〈脱構築〉の振る舞いを体現しているように思われた——これをジャック・デリダのdéconstruireの名詞形の翻訳として理解するか、ナイシュタット教授が提起したdéjouerのそれとして理解するかは差し当たり問わないことにして。
全体討論
フォーラム最終日後半にもたれた全体討論で検討された論点のうち、とりわけ興味深く思われたのは次の問いである——大学の〈危機〉は、科学・技術・経済・政治・文化の諸相がグローバル化する現代に特有な事態なのか。大学はむしろ、その誕生よりつねに〈危機〉にさらされてきたのではなかったか(小林)。〈危機 crise〉という単語はギリシア語krisisに由来し、語源的に同属のギリシア語kritikosからは〈批判 critique〉という単語が派生した。大学はいま、その制度的な成立基盤が掘り崩されて、「真理が探求される場」(小林)であることがもはや自明でなくなるほどに「凡庸」(ナイシュタット)になりつつあり、そのかぎりで危機的である。しかしその一方で、思考の〈臨界点 critique〉を指し示す〈批判〉の取り組みがいまだ可能であるという意味でも危機的であるだろう。この取り組みの内実を言い当てる用語は恐らく、デリダの用いた「脱構築」だろうが、いずれにせよ、いま具体的・現実的に求められているのは、この取り組みのために人文学の使命と責任を再考することである(西山)。さらに、〈真理〉と〈政治〉とが切り結ぶ接点を探り当てるために、人文学という概念の内包を拡大することである(小林)——いずれもときに狂気の沙汰と見紛われるほどに困難であるとしても(ベルクマン)。
(以上文責:津崎良典)
国際フォーラム「哲学と教育」全3回を終えて
UTCPと国際哲学コレージュの共催で開催してきたフォーラム「哲学と教育」は、今回の第3回目でもってさしあたりの完結編に達した。全3回の主催者として、参加してくれたすべての人々に感謝する次第である。学術的催事を国際的な規模で継続させることの意義はけっして少なくはなく、この共同研究は実際、アルゼンチンでの大学論シンポジウムなど別の形ですでに展開されている。このフォーラムによって培われた人間関係は今後も継続されることだろう。
グローバル資本主義の趨勢のなかでいかに大学が困難な状況に置かれようとも、同じ苦悩と歓喜と信念を共有できる友が、いま、この瞬間も、世界のどこかにいる。ひたすらテクストを読み、テクストを書くという孤独のなかにあっても、どこかにいる友との喜悦と信義を絶やさぬようにしよう。距離を介したこうした友愛のうちに研究活動の生命がもっとも瑞々しい仕方で宿るのだから。学問をめぐるこうした感覚的確信を糧にして、引き続き、知の現場を公共的な仕方で生起させ、大学、教育、哲学をめぐる共同研究を進展させていきたいと考えている。
現場――それが、結局、われわれの企図にとってのキー・ワードである。とかく生き生きとした現場から乖離して自閉的になる傾向のある学問的な知に対して、思い切った現場性を回復すること。それぞれの学問とそれと関係のある現場とのアクチャルな結びつきを提示するだけではなく、同時に学問あるいは大学という場そのものが持つ現場性(教育と研究)をはっきりと認識すること。言うまでもなく、現場とは、完全にはコントロールできない場、つねに予測できない出来事が起こり、見知らぬ他者が現われるような場、それゆえに危険であると同時に魅力的な場のことである。――小林康夫『大学は緑の眼をもつ』
(以上文責:西山雄二)