【報告】 Jesse J. Prinz 連続講演会
去る7月14日から7月23日の間、六日間に渡ってJesse J. Prinz教授 (ノースカロライナ大学チャペルヒル校) による連続講演会が開かれた。
【Lecture 1: 2008年7月14日】
第1回である7月14日の講演のタイトルは “The Emotional Basis of Morality: Philosophical Theories and Psychological Evidence” というもので、プリンツさんの道徳に関する基本的な立場が展開された。以下ではその報告を行う。
プリンツさんは感情が道徳にとって本質的な役割を果たしていると考える感情主義 (*1) (Emotionism) という立場をとっている。伝統的にはこのような立場はヒュームの立場と親和的であり、道徳と感情は関係せず、理性によってもっぱら道徳的判断は下されるべきであるとするカントの立場と対立するものである。
プリンツさんによると、感情主義は認識的感情主義(Epistemic Emotionism)と、形而上学的感情主義(Metaphysical Emotionism)の二つの側面にわけることができる。認識的感情主義とは、道徳的事実を認識する際には感情が必要である、つまり、道徳概念は必然的に感情に結びついているという立場である。認識的感情主義は我々の道徳判断についての日常的な観察に基づけば、もっともな立場であるように思われる。なぜなら我々が道徳的な判断を行うときには、いつも特定の感情を伴っているように思われるからである。例えば我々は、幼児虐待を悪いことであると判断するときは、強い憤りの感情を持つであろうし、近親相姦を悪いことであると判断するときは嫌悪の感情を持つであろう。
しかし、このような認識的感情主義に反対する論者は、感情を全く持たないが普通の人と同じように道徳判断を下すことができる人物 (amoralistと呼ばれる) が可能であると主張する。このような反論に対してプリンツさんは、道徳的判断と感情が分かちがたく結びついており、amoralistが不可能であることを心理学的な証拠に訴えて示した。講演では多くの実験や事例が紹介されたが、ここではサイコパスについて述べておくにとどめることにする。サイコパスとは重大な反社会的犯罪を繰り返し犯しながらも、それに対して全く罪の意識を感じないような人々である。彼らは強い否定的な感情を持つことができないが、知的にはほとんど欠陥が無い。彼らは一般的な道徳的な価値判断に同意するため、一見現実のamoralistであるように思われるがそうではない。彼らは「廊下を走ってはいけない」のような規約的なルールと、「殺人を犯してはいけない」といった道徳的なルールの違いを理解していないことが知られている。サイコパスは道徳を本当に理解してはいないのだ。このようなサイコパスの存在は、正常な道徳概念を持つのに感情が必要であるということを示唆している。
一方で、形而上学的感情主義とは、道徳的性質が感情と必然的に結びついているという主張である。道徳的性質についてのメタ倫理学的立場には、エラー説 (Error Theory) や表明説 (Expressivism) などの反実在論的な立場や、道徳的概念は世界における客観的な性質を指示すると考える客観主義 (Objectivism) のような実在論がある。しかし、プリンツさんは、道徳概念は世界における反応依存的 (reaction dependant) な性質を指示しているという、実在論でありながら主観主義という立場をとる。反応依存的な性質とは例えばチョコレートの持つ美味しいという性質を挙げることができよう。チョコレートが美味しいという事実は確かに世界内の事実であるが、それはチョコレートを美味しいと感じる知覚者の存在に依存した事実であるということができる。これと同様に、幼児虐待が悪いという事実は世界内の事実であるが、幼児虐待についての否定的な感情を持つ道徳主体に依存する事実である。この実在論でありかつ主観主義という立場はほぼ自動的に道徳的相対主義を含意する。なぜなら我々の感情のあり方によって多くの道徳的事実があることになるからである。この点はプリンツさんの立場の興味深い点の一つである。
以上がプリンツさんの道徳についての基本的な立場である。最後にプリンツさんの哲学の革新的な側面について強調しておきたい。ここで強調したいのは、プリンツさんがこれまでの哲学に比べて経験的な成果を重視しているという点である。プリンツさんは、これまでの直観に頼った哲学の手法には以下のような重要な問題点があると考えている。第一に、哲学者のいう直観がそれほど普遍的なものではないという点である。哲学者は特殊な訓練を積んだ人々であり、哲学者の直観は一般の人のそれと異なってしまっているのである。哲学者は実際に人々がどのような直観を持っているかを心理学的な手法によって明らかにする必要があるだろう。第二に、直観はしばしば誤っているという点がある。自分自身の心的プロセスについて直観は必ずしも正しいとは限らない。我々の一人称的な観察は、実際の心的プロセスを把握できるようなものではないである。プリンツさんによると、感情と道徳的判断が結びついているかどうかはもはやひじ掛け椅子に腰かけて思索にふけるだけで明らかになるものではなく、それらの実際のつながりを経験的に探究することが必要とされている。このような考えに基づいてプリンツさんは前述のように心理学的な証拠に数多く言及していたのである。プリンツさんはまた、経験的なデータを重要視するだけでなく、哲学者も自ら実験を行う必要があると考えている。このような方法論をとる哲学は実験哲学 (experimental philosophy) と呼ばれており、近年大きな注目を集めつつある。
このように、プリンツさんの道徳の哲学は、道徳や情動の科学と哲学とを接続した刺激的な理論であった。講演の後の質疑応答では、参加者とプリンツさんとの間で、講演の内容についての質問から実験哲学一般についての話題にまで及んで活発な議論が交わされた。このようにして、連続講演の成功を予感させるように、第一回の講演は盛況のうちに終了した。
*1 ここでは、一般的に情動主義と訳されるEmotivismと区別するためにここでは感情主義と訳した。
佐藤亮司 (UTCP若手研究員)
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【Lecture 2: 2008年7月15日】
「神経科学は道徳的判断について何を明らかにするのか」と題された第二回目の講演会において、プリンツさんは、道徳的判断において情動の果たす重要な役割を強調し、神経科学が提示する証拠によってこの点が確証されつつあると主張した。
日常生活のなかで私たちは、ひとつの規範に基づいて合理的に行動を決定できる単純な状況だけでなく、複数以上の規範の衝突を招き、それゆえ容易には行動を決定できない状況にも遭遇する。たとえば、あなたの目の前にいる一人を殺すことで、多数の人の命が救われる状況を想像してみよう。この場合、明らかに「汝殺すなかれ」という規範と、「より多数者の生存」という規範との衝突が生じうるのであり、このような場合には、単なる判断や推論の合理性以上の要因が私たちの行動決定に関与してくることになる。そして、プリンツさんが力説するのは、合理的な推論の能力だけではなく、情動や感情といった要因も道徳的判断において大きな影響力を発揮するという点である。
伝統的には、道徳的な判断を主要には合理的な推論に基づく判断とみなす合理主義のアイデアと、最終的には非合理な情動が道徳的な判断の内容を決定するという直観主義のアイデアが対立してきた。意思決定のメカニズムに関する近年の神経科学研究では、どちらかといえば、これまで直観主義者が力説してきた道徳的判断における情動の重要な役割がクローズアップされつつある。たとえば、前頭前内側部が合理的な判断に不可欠であるというだけでなく、情動的経験や道徳的判断と深く関わる島や帯状回、そして情動的な意思決定に不可欠な眼窩前頭野が、前頭前内側部と密接な結合をもつことも明らかになってきたのである。これは、無視できない情動の影響下で合理的な推論が遂行されていることを意味するだろう。
しかし、プリンツさんは、合理的推論の重要性を考慮に入れない従来の直観主義のアイデアが、神経科学によって直ちに支持されると主張しているわけではない。むしろ、私たちの道徳的判断は、情動と合理的な理性の協同を必要とするのである。プリンツさんがこの共同を擁護するためにあげた論拠の一つであり、また、部分的には神経科学的証拠による支持を得ることのできるモデルは、たとえば、一方の合理的推論の過程と、他方の情動過程の合流によって意思決定が行われるという二重過程モデルである。
プリンツさんによれば、現代の神経科学の証拠はまだ貧弱なものであるとしても、科学研究を基礎にして根本的な誤解を払拭することには大きな意義がある。
西堤優 (UTCP共同研究員)
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【Lecture 3: 2008年7月17日】
In third lecture, Professor Prinz investigates cultural aspects of morality. Some cultures emphasize “equality,” some “equity,” and others “need.” Prof. Prinz points out that each culture has different features of morality. So we have to ask where morality comes from and whether biological theories of morality are superior to cultural ones. Prof. Prinz embodies these problems as follows: Is morality really universal? And is it really innate? He shows many examples that urge us to say “no” to these questions. In this lecture, I understand his provisional answer as follows: although evolutional theory may be important for moral norms, cultural and environmental factors may be more important.
立花幸司 (UTCP共同研究員)
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【Lecture 4: 2008年7月18日】
7月18日に行われたプリンツさん連続講演会第4回のテーマは道徳感情 (moral emotion) であった。これまでの3回においては、「道徳の基盤を為すのは感情である」という彼の主張が、心理学・脳科学・人類学等の様々な証拠を通して示されてきた。これを受けて今回は、そもそも感情とは何であり、道徳とどのように関わっているのかという問いに焦点が当てられた。
本講演の冒頭においてプリンツさんが提示した問いは次の二つである。即ち、第一に感情とは何か。第二に、道徳において問題となるのはどのような感情か。
まず、第一の問いに対し、プリンツさんは感情を身体変化の知覚として定義する。この定義付けを支持する証拠には次のようなものがある。例えば、神経システムに直接働いて感情を引き起こす薬物 (ANS drugs) の存在。単に笑顔を作ることで楽しさの感情が誘発されるという、表情フィードバック (facial feedback) の現象。また、脳機能イメージングの技術により、感情を司る部位は身体知覚にも関わっていることが明らかにされている。
プリンツさんの定義に対する典型的な反論には二種類がある。第一の反論は、感情の意味に訴えるものである。感情は何らかの意味を持っているように思われる。例えば、嬉しさの感情は良い事があるという意味を、悲しさの感情は悪い事があるという意味を持つと言えるだろう。このような特徴を説明する為には、感情を単なる知覚ではなく、思考の一種として捉えるべきではないだろうか。
プリンツさんは、非認知的な感情であっても意味を、即ち表象的内容を持ち得ることを示してこの反論を退ける。彼によれば、我々の感情は我々と世界との関係を表しているのである。我々が持つ、自らの身体変化を知覚する能力は、我々が様々な感情を通して、世界が自分に対してどのようなあり方をしているかを知ることを可能にしている。この能力は、我々の進化の歴史において、我々と世界との関係を表すという働きゆえに選択されてきた (selected for) といえる。つまり、身体変化の知覚能力は、感情を引き起こすことで世界と我々の関係を表すという機能を持っているのである(ここで言われる「機能」とは、フレッド・ドレツキやルース・ギャレット・ミリカンらによって用いられている「目的論的機能」、即ち選択の歴史に訴えて帰属される機能である)。このような機能に訴えれば、感情の意味を説明することが可能になる。
第二の反論は、感情の種類の豊富さに比べ、身体状態のヴァリエーションが少なすぎるというものである。プリンツさんはこれに対し、基礎的な感情が混ざることで多数の複雑な感情が生じうることや、感情は身体状態だけでなく表象される世界の特徴にも基づいて区別されることを指摘する。
プリンツさんによって提示された第二の問いは、どのような感情が道徳において問題となるのかというものであった。この問いを考える上では、感情 (emotion) と情動 (sentiment) の区別が重要となる。情動とはその都度の文脈に応じて特定の感情を持つ傾向性のことである。実は道徳的感情とは、道徳的情動を背景にした感情なのである。
例として、水責め (waterboarding) について考えてみよう。水責めは拷問に当たるため、否定的な道徳的情動に働きかける。この情動から生じる感情は文脈によってさまざまである。もし他人が誰かを水責めしているという文脈であれば、怒り (anger) という道徳的感情が生じるだろう。また、自らが上官に命令されて誰かを水責めにしてしまったという文脈であれば、罪悪感 (guilt) という別の道徳的感情が生じるだろう。これらに対し、理由なく突発的に沸いたイライラ等は、道徳的情動に基づかない単なる怒りであるから、道徳的感情には当たらない。道徳的感情とは道徳的情動に裏打ちされた感情なのである。
道徳的感情の種類は、その感情が生じる場面において、違反したもの・されたものが何であるかによって異なる。例を挙げると、他者が人々に対して為した違反には怒りの感情が、共同体に関して為した違反には軽蔑 (contempt) の感情が生じ、また自分が自然に対して為した違反には恥 (shame) の感情が生じる。これらの道徳的感情については、その神経相関物 (neural correlate) に関する脳科学的知見も得られている。また、異なる様々な文化の間でも(どれを重視するかという点で違いはあれ)同じ文脈においてほぼ同じ種類の道徳的感情が見られることが明らかになっている。
感情は我々の道徳の基礎を為すものである。感情に基づく道徳的判断のあり方をより詳細に解明するためには、更なる心理学的研究や、比較文化的研究が必要とされる。
筒井晴香 (UTCP共同研究員)
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【Workshop 1 「道徳・感情・進化」(“Morality, Emotions, and Evolution”): 2008年7月22日】
このワークショップは、次のような順序で行われた。まず、UTCP側のRAやPD等がプリンツさんに対するコメントないし質問を発表し、次いで、それへのプリンツさんからの応答をいただき、そして最後に、参加者全体での討論、という順序である。この日の質問者は、発表順に、中澤英輔、佐藤亮司、礒部太一、中尾麻伊香、西堤優、の5人であった。以下は、その内容とプリンツさんの回答、そして総合討論の一部の報告である。なお、時間的順序は変えてある。
《質問と回答》
中澤栄輔さん(UTCP若手研究員)は、「感情と自然種」 (“Emotions and Natural Kinds”) と題した発表を行った。中澤さんは、感情が自然種であるという点においてプリンツさんに同意するものの、そこには若干の問題があると思われると述べた。というのも、感情の下位分類のうちのいくつかにかんしては、プリンツさんによる感情の身体的称賛説に合致しないメカニズムを基礎として成立するものがあるように思われるからである。たとえば、幸福は脳内の報酬系に訴えて説明されるべきではないのか。そうだとすると、感情の下位分類にかんする経験的探究がいっそう要請される、というわけである。
これに対するプリンツさんの回答の要諦は、感情に限らず自然種の下位分類にかんしては様々な問題が存在するため、自然種にかんしてどのような存在論をとるかに応じて答え方が異なってくる、という点に求められるだろう。
佐藤亮司さん(UTCP若手研究員)は、「本当に感情を想像できるのか」 (“Can we really imagine emotions?”)と題し、主として感情をめぐる認知説と非認知説の対立を軸とした発表を行った。認知説とは、称賛的な判断を形成することが、感情をもつための前提となる、という立場を指す。佐藤さんによれば、Gut Reactionsにおけるプリンツさんの立場の問題点は次の点にある。それは、プリンツさんは、ほとんどの感情が非認知的であると考えているのにもかかわらず、想像においては認知的である、と主張する点である。しかし、このような主張は、想像における感情は本当に感情なのか、といった疑問を生み出してしまう。
これに対して、プリンツさんは、佐藤さんの議論が大きく直観に訴える種類のものであることを指摘したうえで、この問題は、たとえば想像時の脳の活動状態を見るなど、経験的な探求によって解決されることなどを示唆した。
礒部太一さん(東京大学大学院)の発表は、道徳性の評価ないし進歩にかんするものである。プリンツさんは、この問題に対して、道徳外的な (extra-moral) 基準の重要さを説く。というのも、道徳性そのものの評価を道徳的な基準で行っても、すでに自分たちがもっていたものを肯定し、他のものしりぞけるにすぎないからである。礒部さんの質問はたとえば次のようなものである。では、道徳外的な基準が道徳的基準よりも基礎的なのか。道徳外的な基準もまた主観的なものを含むのではないか。
これに対するプリンツさんの回答はこうである。まず、道徳外的な基準ももちろん主観的で相対的なものであり、これが道徳的規準よりも基礎的であるということはない。全体論をとるからである。しかし、道徳が道徳外の価値に貢献することはあっても、その逆はなかなか考えにくい、という点には非対称性がある。この点では、道徳外的な価値に機能上の優先性はあるといえるだろう。とはいえ、ときに道徳の側が、道徳外の価値の産生に影響を与えるということはある。
中尾麻伊香さん(UTCP若手研究員)は、「感情は技術によって軽減するのか? トローリー問題にかんする考察」 (“Is Emotions Reduced by Technology? A Consideration on the Trolley Cases”) と題して発表を行った。いわゆるトローリー問題においては、他者との直接的な身体的接触が道徳的判断の重要な要因として働くということが知られている。人を橋から突き落とす場合と、離れた所からレバーを操作する場合とでは異なる判断が生じるのである。この「レバーを操作する」「ボタンを押す」といった行為は技術に基礎をもっており、その意味では技術の発展がわれわれの感情、ひいては道徳的判断に影響を与えざるをえない。この認識に立ったうえで中尾さんは、原爆投下という判断を事例に挙げて問う。技術の発展は、道徳的判断に際して生じるべき道徳的な葛藤を軽減してしまうのではないか、と。
プリンツさんの回答は、技術の発展は道徳性に貢献する、という楽観主義に立つものである。まず、事実として前近代社会の方が暴力が多かったということがあげられる。殺すのが容易になるほど、それは減るのである。次に、テレビのような情報技術は、ヒューマナイズに貢献する。こうした技術は、たとえばフリー・ジャーナリストが利用し、世界に連帯をもたらすものと考えることができる、というわけである。
西堤優さん(UTCP共同研究員)は、「進化倫理学者たちに対するプリンツの異論についての質問」 (“A Question about Prinz’s Argument against Evolutionary Ethicists”) と題し、発表を行った。プリンツさんはおおよそ、道徳的規範は進化の産物ではなく、文化が進化の産物である脳に備わった種々の行動的・情動的な傾向性に影響して道徳的規範を生み出すのだと論じ、自然選択により進化した規範の優位性を説く進化心理学者たちを批判している。しかし、西堤さんによれば、プリンツさんのこうした見方は、結局のところ、われわれに社会的な諸関係を通じての評価的スキルの獲得を可能にする神経システムの存在によって確証されるほかない。そこで、プリンツさんの見方にとってもっとも重要な証拠とは何なのか、ということが問題になる、というわけである。
これに対してプリンツさんは、確かに社会的学習にかんする脳神経科学ないし行動科学上の知見はごく限られており十分なものとは言えないのが現状であるが、しかしいずれ有益な知見が得られるようになるであろうと考えている、と述べた。すなわち、われわれは、文化的学習の基礎となる神経メカニズムを発見することができるであろう、というのである。
《総合討論》
総合討論ではいくつかの論点が議論された。印象深かったものが次の一連の議論である。まず、ロボットは感情をもちうるか。プリンツさんによれば、機能のレベルにおいて、ロボットは人間と共通の感情をもつことができる。だが、これにはロボット自身の身体が必要となる。感情は身体の変化を検出するものだからである。では、そもそも身体とは何であると考えるべきなのか。どこまでが身体なのか。たとえば、コンピュータを人間と接続した場合、コンピュータは身体の一部になったのか。あるいは、メルロ=ポンティ的な拡張された身体についてはどのように考えるのか。このように、道徳をめぐる議論から出発して身体の存在論という深部まで達するなど、各人に各人ごとの課題をもたらしたであろう奥行きのある討論が展開され、きわめて充実したワークショップが実現したといえるだろう。
植原亮 (UTCP共同研究員)
【Workshop 2 「道徳的相対主義」(“Moral Relativism”): 2008年7月23日】
前日に引き続き、本ワークショップでは、日本側の若手研究者が小堤題を発表し、プリンツさんがそれに答えるという形式での応酬が行われた。
一人目の発表者は吉田敬さん。タイトルは「道徳的相対主義・寛容・可謬主義:プリンツをめぐる問題 (“Moral Relativism, Tolerance, Fallibilism: A Problem with Jesse Prinz”)」である。
プリンツさんはその著『道徳の情動的構築 (The Emotional Construction of Morals) 』(以下ECMと略)において、道徳に関する相対主義的な立場をとり、徹底してそれを擁護している。彼は相対主義の肯定的側面として、自らの道徳的価値に対する確信を失うことなく、他の道徳体系に対する寛容の精神を促すことができるという点を指摘する(「私の道徳は正しい、あなたの道徳もまた正しい」)。だが他方でプリンツさんは、二つの道徳体系に関して、その根底にある基底的規範 (grounding norms) が異なる場合、両体系の間ではもはや理性に基づいた対話は不可能であると主張する。
吉田さんは、後者のこうした主張からは、「道徳的相対主義は、基底的規範に関する深刻な不一致が生じた場合、容易に不寛容な絶対主義へと転化しうる」という論点が帰結すると指摘する。吉田さんは、相対主義に代えて、ポパーの批判的合理主義から継承した「道徳的可謬主義」を対置する(「私が誤っており、あなたが正しいのかもしれない。そしてわれわれは、努力によって真理へと近づいてゆくことができる」)。
これに対しプリンツさんは、「相対主義は寛容を促す」というのはあくまでも経験的な心理学的主張であり、実際にそうした主張を裏づける研究(無神論/有神論と道徳的寛容/不寛容との相関性を調査した研究)も存在すると指摘する。またプリンツさんは、可謬主義が成功するためには、道徳の領域において問題となるのが実質的な真理(評価者超越的な真理)であると論証する必要があるが、これは(氏がECMのなかで論じたように)非常に困難な作業であると述べる。相対主義はトリヴィアルな真理(評価者相対的な真理)しか要求しないため、この点では相対主義の側に論証上の優位性があると言えるのである。
二人目の発表者は筒井晴香さん。タイトルは「個人的相対主義と集団的相対主義 (Individual Relativism and Group Relativism)」である。
プリンツさんは、道徳の成立に関して、ある社会集団の内部で行われる対話と教育の必要性・重要性を強調する。道徳的判断は道徳的感情を構成要素としてのみ成立しうるが(構成的感情主義)、当の感情は文化的な編成過程を通じて醸成される社会的構築物である。だが、いったん道徳的感情が個人のうちで座を占めれば、道徳は当の個人が有する感情を主たる構成要素として成立することになる。それゆえ、プリンツさんの相対主義は究極的には個人主義のそれであると言える。集団主義は道徳の編成過程を通じてこの個人主義から派生する。
筒井さんは、ある思考実験を提示することで、個人主義と集団主義の間には看過しえない緊張関係が存在するということを示そうとする。ある人物Sを想定しよう。Sは、自身が属する社会集団の他の成員と同様の道徳教育を施されるが、その結果として体系的に逸脱した別の道徳性を身につけてしまう。この場合、Sは文化的な編成過程を通じて自身の道徳性を獲得したとはいえないため、プリンツさんの見方にしたがえば、そもそも道徳性を有しているとは認められない。道徳の成立における社会性の強調と道徳に関する個人主義の擁護との間には軋轢が存在するのである。
プリンツさんの応答によれば、集団主義に対して個人主義が優位に立つという論点には、ある道徳性に関して参照枠となる集団の「境界設定」という問題を通じて至ることができる。すなわち、道徳が集団によって決定されるとしても、自らに権威をもつのがどの集団であるかは最終的に個人によって決定される。それゆえ、集団に対して個人に論理的な優先性が存するのである。この経路は、筒井さんの批判が成功しているとしても、それとは無関係に成立しうる。さらにプリンツさんは、筒井さんの提示した思考実験は統計調査を通じた実験哲学的手法によってテストされるのにふさわしい主題である、と指摘する。
三番目の発表者は植原亮さん。タイトルは「道徳的発展に関するプリンツの全体論的方法論についての懐疑的コメント (“Skeptical comments on Prinz’s holistic methodology of moral progress”)」である。
ECMにおいてプリンツさんは、道徳的相対主義に立ってもなお、われわれはある道徳体系に関する発展を評価することができる、と論ずる。それは、自らが有する道徳外の諸価値を基準として、道徳的価値に関する道具的有益性を評価することによってである。たとえば、整合性という道徳外の基準をとれば、内部の諸価値に関して整合性の高い道徳体系はより良い体系であるということになる。
植原さんは、プリンツさんの全体論的方法論は「限定合理性」の問題を解決すべきものとして抱えていると指摘する。チャーニアックが論ずるように、多数の道徳的信念の集合に関する論理的整合性の計算を行うことは、われわれの有限の計算能力からすれば不可能に近い。だとすれば、意図的に道徳的改訂を行うことはいかにして可能なのだろうか。この問題を乗り越えるために植原さんが提唱するのが、専門的な認知的分業に基づいた全体論的改訂の「社会化」である。われわれは、道徳的改訂において必要となる作業を専門性に基づいて分業し、それを個人の内省を越えたひとつの社会的事業として遂行してゆくことができる。このような視座に立ってはじめて、道徳的改訂は人間の手の届くところに降りてくるようになるだろう。
プリンツさんは、社会化の必要性に同意しつつ、たしかにグローバルなレベルで整合性を評価するという作業は人間の能力の限界を超えているかもしれないが、ローカルなレベルでの整合性は比較的容易に評価可能である、と指摘する。ローカルな改訂は新たな不整合性を生み出すかもしれないが、われわれはそこを出発点とするより他に選択肢はないのである。また、計算可能性に関しては、基底的規範の数がごく少数であるという可能性も考慮すべきである。これは経験的問題であり、考察においては改訂を志向する特定の体系に関して探究を行う必要がある。
最後の発表者は小口峰樹(当記事の報告者)。タイトルは「道徳の系譜学を再定位する(“Repositioning the Genealogy of Morals”)」である。
ECMにおいてプリンツさんは、ニーチェの系譜学を批判的に継承し、道徳的発展を助ける道具としてそれを再提示する。プリンツさんが擁護するテーゼによれば、現在有しているある道徳的価値に関して、系譜学的探求によってその起源が卑しい(ignoble)ものであることが判明したとき、われわれはその価値を破棄するか否かを再考すべきである。「卑しい起源」とは、ある価値の成立・普及が、その所有者の利益に適うがためになされたのではなく、誰か他の(たとえば時の権力者集団の)利益に適うがゆえになされたような場合を指す。
小口は、もしプリンツさんが系譜学に関する自身のテーゼを道徳的改訂の候補となる価値を選別するために使用するならば、実際には改訂されるべき重要な価値の集合を見落とすことになると指摘する。なぜなら、たとえ卑しい起源を有していなくとも、現在のわれわれにとって有害無実であるような価値は存在しうるからである。ある価値を改訂すべきか否かという問いにおいて重要なのは、その価値の歴史的起源に関する評価ではなく、それが現在どのような便益ないしは危害をもたらしているかの評価である。
応答においてプリンツさんは、危害 (harm) という概念の捉えがたさを指摘した上で、危害という概念は道徳的改訂を評価する基準としては狭すぎると論ずる。プリンツさんによれば、系譜学はその価値が集団のアイデンティティを表現したものであるかどうかを明らかにする上で重要である。すなわち、卑しい起源をもつ価値は自らのアイデンティティを表現したものとは認められないのである。また、ある価値による危害を許容可能なものとして受けいれている場合でも、系譜学によってその価値が卑しい起源を有していると判明すれば、その価値は廃棄に値するものと認められるかもしれない。このように、系譜学は道徳的発展においてそれ独自の重要な役割を担いうるのである。
続く質疑応答では、発表者全員からの返答も含め、多岐にわたる論点について活発な議論が展開された。最後に、信原幸弘氏およびプリンツさんから締め括りの挨拶が述べられ、互いに将来の研究協力を固く誓いあった上で、今回の連続講演会は閉会を迎えた。
小口峰樹 (UTCP若手研究員)