【報告】ワークショップ「生/性と権力の制度を読み解く」
11月7日、ワークショップ「生/性と権力の制度を読み解く」が行われた。
社会が再生産を基盤とするものであるかぎり、「生」は「性」の問題として、権力と不可分に結びついている。本ワークショップでは、こうした「生/性」と権力との関わりをめぐって、特定のアイデンティティを共有する国民によって成立する近代国家の問題を射程に置きつつ、それを異なる社会構造の枠組みから照射することを企図した。発表は以下の三氏によって行われた。
後藤絵美(UTCP/日本学術振興会)「誰のためのヴェールか—現代エジプトにおける宗教言説の変容—」:現代エジプトにおける女性のヴェールをめぐる言説を取り上げ、ヴェールを通してみえてくる性の権力構造を論じる。従来、男性が女性にかぶせるものとして語られていたヴェールを、女性が神の名の下に身にまとうものとして位置づけるイスラム教の説教師の語りに着目する。「男性のため」のヴェールから、「神のため」のヴェールへ。ヴェールの意味づけが生じる場所が、男性と女性との権力構造から神と女性との関係性のなかへとずらされることで、女性が選び取る主体性の問題としてヴェールが立ち現れることを指摘する。
木村朗子(津田塾大学)「文学というアポクリファ−日本中世宮廷社会の性の配置から−」:日本の古代後期の物語に描かれる世界を、性をめぐる権力構造として読み解く。日本の摂関政治の性の配置は、人々を〈生む性〉と〈生まない性〉とに振り分け、乳母や召人などの存在を生み出した。そこで紡がれる性の関係性はいわばクイア化の実践と論じられるべきものとしてある。平安期以前の律令政治をなし崩しにする形で行われた摂関政治は、「王なき支配」、「法なき政治」というべき形態であり、それはほかならぬ文学テクストから把握される制度としてある。
萱野稔人(津田塾大学)「生-権力と国民国家のあいだ—フーコーのレイシズム論—」:M・フーコーにおける国民国家の成立を生と権力との関わりから捉える。国民国家の成立は、君主による民衆を死なせる権力としてある「主権的権力」から民衆を生きさせる権力である「生-権力」の成立として論じられ、このことは国民全体が国家の暴力の担い手となるという意味で暴力の組織化としても捉えられる。ここで問題となるのは、メカニズムの異なる「主権的権力」と「生-権力」との接合であり、フーコーによれば、両者が結び合わされるところにレイシズムの問題が発生するのであり、生物学的生を管理する人種化された国家の論理が立ち上げられることになる。
発表に続いて、市野川容孝氏(東京大学)によるコメントが行われた。まず、M・ウェーバーによる権力の定義をもとに、それぞれの発表における権力の意味づけにおいて、権力を通して誰の意志が貫徹されるのかという問題提起がなされた。続いて、M・ヒルシュフェルトが展開した「変質」の論理を手がかりに、セクシュアリティの問題系が歴史的文脈と不可分であることを示しつつ、個々の発表、とりわけ木村氏が、近代に先立つ中世の日本社会の性の配置にみられる現象を「クイア化」と名指すときのセクシュアリティの概念設定と時代的文脈との関わりを問う質問が出された。
全体討議では、権力の遂行する者としての”Subject”に代わって、”Structure agency” の概念を通して性の権力構造を理解するべきではないかとする問題提起や、ヴェールをめぐる言説において取り結ばれた神と女性との関係の背後にある権力構造の有無や、イスラム教の宗教上の問題として語られるヴェールが、エジプト社会において果たしてきた社会的・歴史的意味などについて質問が寄せられた。3時間を超える議論となった本ワークショップであるが、60名に及ぶ参加者を得たことにも、生/性と権力との関わりへの問題関心の高さがうかがえるものとなった。
(報告者:内藤まりこ)