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【報告】第22回世界哲学会議―「多元性」と「連帯」とを哲学的に結ぶことの可能性

2008.10.15 北川東子

 事業推進担当者・北川東子による第22回世界哲学会議@ソウルの報告です。

 21世紀の今日になってようやく、哲学は「方法論的中立性」という虚構の普遍性を捨てて語る勇気をえたように思われる。そのことでやっと、歴史的文脈や言語的多様性や文化の多元性を思考の原動力にすることができるようになったのである。もはや無色透明の語り手たちではなく、自分たちのポジションを意識し、「差異」を前提として語りうる人々こそが哲学の語り手である。そうした「差異」にもとづいて哲学を語る多くの人々がいて、思想の多元性のなかから、「人類全体にとってのグローバルな哲学」を構想すること―これこそ現代哲学の理想の姿であろう。

 そうした「多元性」と「連帯性」からの哲学が今いかに必要とされているか、それをひしひしと感じることができる機会があった。
 8月はじめに韓国・ソウルで「世界哲学会議」が開催された。この会議には、「日本哲学会」とアジア各国の哲学会との特別共同セッションをはじめとして、日本からもかなりの参加者があった。UTCPからは、村田純一さんや信原幸弘さん、そして西山雄二さんなどが参加されたが、私も「文化のなかのフェミニズム」というタイトルで、中国、韓国、台湾、アメリカの女性哲学者たちとともに、「ジェンダーと新しい哲学の可能性」について語り合うパネルを行った。

 「世界哲学会議」の大会は五年に一度開催されるが、今回のソウル大会は東アジアで始めての大会であった。「世界哲学会議」がソウルで開催されたことの背景には、韓国出身の国連事務総長の存在や韓国社会の急速なグローバル化が関係しているだろうが、哲学内在的な理由もある。
 現在、東洋哲学にたいする世界的な関心がある。東洋哲学にたいする関心はこれまでもなかったわけではない。しかし、現在の関心は、これまでのように、「西洋ではない精神性」や「東洋特有の文化」や「東洋思想」にたいする関心ではない。西洋と東洋という旧来の文明の対立を超えたところで、「東洋」を手がかりに新しい思想的集合体を獲得しようとする動きでもある。
 世界哲学の一環として東洋哲学を理解するという姿勢をよく現していたのが、「中国語で哲学する」というパネルであった。ドイツを中心としたヨーロッパの哲学者たちと中国、香港、台湾の中国語圏の哲学者たちとの共同パネルであったが、「中国語において行われた哲学」をいかに現代の哲学にたいするグローバルな貢献というかたちで開いていくかという問題について盛んな議論が行われた。ただし、議論は建設的ではあっても、決して融和的ではなかった。フロアいっぱいをうずめた中国人哲学者たちから、「中国哲学」にたいする文化的占有権が大いに主張されたことも付け加えておかなければならない。

 筆者が「世界哲学会議」に参加したのは今回がはじめてだが、ソウル国立大学の緑豊かな広場で行われたレセプションで、司会者が「これは哲学のオリンピックです」と高らかに宣言したのには苦笑したが、たしかにこれほど多様な哲学の国際会議は他にはないであろう。ただし、大掛かりなわりには、具体的・内容的に深い議論が行われたというよりは、個人的には、むしろイベント的な性格が強いように感じた。いくつかのセッションやパネルに参加した限りでは、問題意識は高いが、残念ながら、議論自体の盛り上がりに欠けていた。
 たとえば、その問題設定に惹かれて、「グローバル・ヒューマニズム」というセッションを覗いてみた。大講義室のフロアには、欧米やインドや中国などアジアの参加者、さらにはイスラム圏の参加者がいたようであり、その関心の高さを示していた。しかし、発表者たちの「グローバル性」の理解とは、「あらゆる文化・歴史的な差異を超える視点」ということであり、セッションの中心的な議論は、従来の人間学的視点をより極端な抽象性へと推し進めることで「ヒューマニティ」を考える可能性をめぐるものとなった。議論の具体的な成果としては、「生物と非生物との違い」や「神や動物との関係」という西洋キリスト教的パターンの再生といって以上のものはなかったようである。したがって、フロアからの質問も活発ではなかった。「多様性の哲学」や「多元性の哲学」が、単なる理論的な立場や原則に終わってはならないことを痛切に感じた場面であった。
 現在、「多様性」や「多元性」の哲学が必要という事実すらも、欧米の男性哲学者たちの抽象的な議論のなかで、その本来の切迫さを失いがちである。正統的な哲学的言説が排除してきた人々からのたえまない異議申し立てがあってこそ、「多元性と連帯の哲学」は可能となる。
 女性であれば、とりわけ東アジアの女性であれば、あるとき衝撃的な事実に気づくことがある。哲学がいかに真理について語り、いかに「人間の本質」について語ってきたにせよ、また、その語りがいかに精緻であって厳密であるにせよ、そうした事柄のほとんどが「欧米の男性たちの口」を通して語られてきたという事実である。

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(「世界哲学会議」のパネルを終えた「東アジア女性哲学ネットワーク」のメンバーたちと)

 私が中核メンバーとして参加している「東アジア女性哲学ネットワーク」は、今回の「世界哲学会議」で、「文化におけるフェミニズム」というパネルを行った。ここで私は、現代のフェミニスト哲学の方法として”Double Feminization”という概念を提示したが、これについては、オランダの女性哲学者たちからも大いなる関心が示された。
 したがって、筆者が「多元性と連帯からの哲学」の必要性をひしひしと感じたのは、「世界哲学会議」ではなく、その直前にやはりソウルの梨花女子大学で開催された「国際女性哲学者連合」International Association of Women Philosophers(IAPH)の大会に出席したときであった。  
 「国際女性哲学者連合」は1980年代にドイツとオーストリアの女性哲学者たちが中心となって形成された学術団体であるが、その後きわめて広範な女性哲学者の国際的ネットワークにまで発展した。今回は、「マルチカルチャリズムとフェミニズム」という総合議題のもと、世界各国から300人ほどの女性哲学者たちが集まって、報告・討論を行った。詳しくは、IAPHのホームページhttp://www.iaph-philo.orgを見てほしい。アジア大会ということもあって、東アジアだけでなく、インドやスリランカ、またタイやフィリピンなど東南アジアからの女性哲学者たちが多かった。
 筆者も、招待講演者として、欧米やアジア、アフリカからの発表者たちとともに、特別セッション「家族」で”Feminist Identity and Family Identity- Antagonism and Synthesis”という講演を行った。この特別セッションは、「少子高齢化」や「ワークライフバランス」といった共通の社会問題をかかえるなかで、「家族」概念の再考によって新しい家族共同性のモデルを構築することを目的としている。
 議論の中核をなしていたのは、「これまで女性蔑視的な役割を果たしてきた宗教的・思想的伝統をいかに創造的に今日的に再生するか」という問題であった。韓国やタイの女性哲学者たちとの活発な議論が行われた。
 「国際女性哲学者連合」の今大会で特に印象的であったのは、アフリカの女性哲学者たち、とりわけ、コンゴとナイジェリアからの女性哲学者の発表であった。アフリカの女性たちの現実がいかに過酷なものであって、そうした現実を変えていくにはなによりも「変革の思想」が必要であることを痛感させられた。そしてそのような「変革の思想」を構築するには、世界中の女性哲学者たちの連帯が必要である。

(文責:北川東子)

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