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【UTCP Juventus】佐藤 亮司

2008.09.17 佐藤亮司, UTCP Juventus

 UTCP若手研究者研究プロフィール紹介の20回目は、RA研究員の佐藤 亮司(心の哲学)が担当します。 

 まず、最初に私のこれまでの研究内容について紹介したいと思います。私が中心的に研究してきたのは意識の問題、とりわけクオリアを伴った現象的意識についての問題です。
 20世紀半ば以降の認知科学(神経科学、計算機科学、認知心理学etc.)の発展によって、人間の脳の働きが明らかになってくると、それに伴っていくつかの心の働き(例えば知覚の働き)も詳細にわかるようになってきましたが、そのような流れの中でも、意識についての科学的研究は非常に困難なものと考えられていました。その原因の一つとして、意識とは本質的に一人称的なものであり、三人称的には接近できないものであるという考えが根強いということがあります。脳の機能の探求は三人称的に可能であるとしても、ある脳状態が意識を伴う経験であるかどうかについては語りえないように思われるのです。英米圏の心の哲学においても、意識の問題を物理主義的に理解することは、最も難しい課題の一つであると考えられており、問題のあまりの困難さから、1980年代以降、意識に現れるクオリアは物理的な存在者ではないと考える議論が次々と提出されたほどです。
 私はこのような流れに抗して、意識を非心的な用語(例えば機能的な用語)によって説明し、意識を物的な世界に位置付けることを目標としてきました。科学と整合的な世界観の中に意識を位置づけ、科学的探究が可能なものとして意識を定位する、これが私の研究の目標です。
 修士論文では、このような問題意識の下で、意識的な知覚と無意識的な知覚の区別を機能的に解明しました。私の修士論文の内容については、科学基礎論学会の2008年度年会で修士論文の内容に基づいた発表を行い、その発表の内容を近日中にUTCPブログにて報告いたしますのでそちらをご覧ください。
 UTCPのRA研究員になってからは、以下のような二つの研究を進めています。

(1) 情動の研究
 情動経験は、知覚、感覚、情動という意識経験の三分類の一つであるにも関わらず、近年の心についての科学的研究及び英米の哲学的研究は、知覚の研究に偏っており、情動は十分に研究されてきませんでした。しかし、情動経験は哲学的科学的に非常に重要なものであるように思われます。
 情動経験が重要であると思われる第一の理由は、情動経験はしばしば知覚や感覚と相伴って生起するからです。例えば、我々が痛みの経験を持つときは通常、痛みに対する恐怖や嫌悪などの情動が伴っています。また、我々が痛みに対して意識的になるのは、痛みがまさに恐怖や嫌悪の対象であるからのようにも思われます。情動は我々の注意を痛みに引き付けるように働いているように思われます。このように考えると情動というものは意識的経験一般に対して重要な働きをしているように思えるのです。
 第二の理由として、情動は価値判断と結びついており、それゆえに行動と結びついていると考えられる点が挙げられます。例えば恐怖の経験は、恐怖の対象を避けたいという欲求と結びつき、さらに避けるという行動と結びついていると考えられるからです。このように情動は知覚と意識的な経験、意識的な経験と行動の間をつなぐものであるように思われるのです。
 以上のような観点から、神経科学者のA.ダマシオの研究や、今年の夏にUTCPで連続講演を行った、J.プリンツの研究を参照して情動経験についての研究を進めていっております。いまだ、研究が完成したとは言い難い状況ですが、UTCP中期プログラム中間発表会において経過報告を行いました。

(2) 倫理の脳神経科学
 私が現在進めている研究の第二の柱は、倫理の脳神経科学の研究です。脳神経倫理学は、脳神経科学の倫理と倫理の脳神経科学という二つの側面を持っているといわれています。前者は脳神経科学によって引き起こされる倫理的問題(マインドリーディングや、スマートドラッグの問題)を研究するものであり、後者は脳神経科学によって我々の倫理的行動の実態が明らかにされることによって倫理学が蒙る影響について研究するものです。私が研究を進めているのは、後者に関わる問題です。
 ある対象の倫理的地位を考える際には、その対象の持つ心的能力を考慮しなくてならないように思えます。例えば、功利主義的な観点からすると、動物が苦しみうるならば、その動物が無用に苦しまないように配慮するべきだということになるでしょう。しかし、これまでの倫理学で措定されていた心的能力(「痛み」「欲求」「苦しみ」)は、人間の心的能力についての素朴な理解に基づいて構築されているのです。もし、認知科学によって動物の持つ様々な心的能力の実態が明らかにされていくと、これまでの倫理学の枠組みでは想定されていなかったような心的状態の存在が明らかになるかもしれません。例えば、動物が持つような苦しみは、我々の持つ苦しみとどこか異なっているかもしれません。我々は今起きていない事態についても苦しむことがありますが、動物がそのような苦しみを持つのかについては未だ確かではないでしょう。もし、そのような苦しみを持たないということになると、そのような心的状態をそもそも苦しみと呼んで良いのかが問題になってくるでしょう。
 このような形で動物の持つ心的能力がより詳しくわかるようになり、彼らの心的能力の独特さが明らかになってくると、我々はより認知科学的な成果に基づいた倫理学を必要とするようになる可能性があるのです。同種の問題は、植物状態や閉じ込め症候群の患者にどのようなケアを行うのが適切であるのかを考える際にも生じてくるでしょう。この問題についての研究発表を来年のBESETO哲学会議で行う予定です。

 以上が私の研究の概要で、これからの研究は哲学だけでなく、神経科学、倫理学の領域に踏み込んだ内容になる予定です。このような研究を行うにはまだまだ力不足ではありますが、皆様のお力を借りながら全力で研究を進めていく所存です。

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