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【UTCP Juventus】 澤井一彰

2008.09.18 澤井一彰, UTCP Juventus

UTCP若手研究者研究プロフィール紹介の21回目は、PD研究員の澤井一彰(オスマン朝史)が担当します。

以下では、私の研究テーマである16世紀後半のイスタンブルと地中海世界の物資流通とについて、これまでの研究の経過とともにご紹介したいと思います。これまでの研究成果などにつきましては、プロフィールに記載がありますので、そちらをご覧下さい。

そもそも私がオスマン朝(オスマン帝国とも言いますが、「トルコ人」だけの国ではないので「オスマン・トルコ」という言い方は正しくありません)に興味をもったのは高校生の時でした。今とかわらず当時も歴史が大好きだったので、大学に入ったら歴史学を学びたいと思っていました。高校時代に世界史の教科書で「オスマン・トルコ」として習った国はアジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸を支配した巨大な帝国で、しかも600年以上もつづいたということだったので、ぜひこの王朝の研究をしてみたいと思いました。またその頃は、ヨーロッパが世界に拡大した「大航海時代」のきっかけをつくったのは、「オスマン・トルコ」という悪い国が、それまでインド洋から地中海さらにはヨーロッパへとつながっていた商業路を遮断したためだと教えられていました。ところが「大航海時代」前後にオスマン朝がどのような商業政策をとっていたのか、ということについて研究した人は、日本はもとより世界的にもいないようでした。

こうして、16世紀におけるオスマン朝の商業政策が僕の卒業論文のテーマになりました。いろいろと調べた結果、「大航海時代」はオスマン朝が強大になるずっと以前に始まっていたことや、オスマン朝そのものはインド洋からの物資流通を妨害していなかったこと、むしろインド洋から航海やペルシア湾への香辛料の流入を妨害していたのは、アフリカまわりの新航路から利益を得るポルトガル(後にはオランダ)などのヨーロッパ勢力であったことなどが分かりました。

修士課程では、オスマン朝領内での商業や物資の流通がどのようであったのかということに興味をもちました。修士論文は、オスマン朝で作成された「法令集Kanunname」、領内で流通する各種物資の価格を定めた「公定価格台帳Narh Defteri」、君主が発した勅令の写しである「枢機勅令簿Mühimme Defteri」を用いて、16、17世紀のオスマン朝における公定価格制度のあり方や物資流通の実態をあきらかにすることを試みました。

2002年8月からは、平和中島財団の奨学金をいただきイスタンブルに留学しました。主に総理府オスマン文書館というところに通って、博士論文のテーマであるイスタンブルと地中海世界の物資流通についての一次史料を収集しました。イスタンブルには世界各国から若手研究者が集まって来ていましたので、多くの同年代の友人を得るとともに、世界に広がる研究者のネットワークをつくることもできました。

2006年に帰国してからは、東京大学で研究をつづけています。現在は、史料を読んだりデータを整理したりしつつ博士論文を準備しています。博士論文では、穀物とりわけ小麦の流通をてがかりに16世紀後半の地中海世界の歴史が、これまで言われてきたようなキリスト教ヨーロッパ世界だけでなく、むしろオスマン朝を中心に展開していたということがあきらかになると考えています。

これまでは主として16世紀後半についての研究を行ってきました。16世紀後半は、キプロス島をめぐる戦いや有名なレパントの海戦などがありましたが、それ以外の時期はおおむね平和な時代であったということができます。ところが17世紀に入ると、オスマン朝とヴェネツィアとの間でクレタ島をめぐって24年にもわたる長い長い戦争が始まることになります。この間、ダーダネルス海峡をヴェネツィア艦隊に封鎖されたオスマン朝は、イスタンブルへの物資供給を円滑に行うことができず、大きな社会問題を引き起こしたことが知られています。このため、今後はこうした17世紀の状況にも目を配りつつ、前近代の地中海世界における物資流通の諸相を多角的に検討していきたいと考えています。

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