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時の彩り(つれづれ、草) 043

2008.09.26 小林康夫

☆ パリの秋

まだ暑さが残る日本からユーラシア大陸を飛行してパリに着いてみると、もうすっかり秋の気配。マロニエの葉も色づきはじめている。

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(既に落ち葉が散在するリュクサンブール公園)

留学時代も含めればそう長くもない人生のうちの小さくはない部分をここで暮らしたわけだから、最近は、着いてもなんの感慨もなく無感動のままではあるが、しかしこの街は確実にわたしが「愛した」もののひとつではあるよな、と暗い機内で目を閉じて思っていた。人文系の研究者にとっては、ひとつの特別なつながりを継続的にもつことができる「街(フィールド)」というのは決定的に重要。異質で複雑で複合的な「他のリアリティ」のなかに身を投じることではじめて経験できることがある。

しかし今回も、と言うべきだろうが、アルゼンチンでの発表の準備が整っていなくて、毎日、閉じこもってテクストに向かいあっていることが多く、あまり街を経験する余裕がない。それでも昨日は、高等師範学校にドミニク・レステルさん(2月にも6月にもUTCPで講演をしていただいている)を訪ねた。

いっしょにトルコ料理の昼食をとりながら、前日にかれがユネスコで行った「地球外生命(宇宙人!ですね)」とのコミュニケーションの可能性に関する発表のことからはじまって、人文科学の危機について、「人間」と「動物」そして「それ以外のもの(たとえば宇宙人あるいは神)」との交渉の原理論、さらには言語の哲学について、といつもながらの広汎な話題が飛び交った。

11月にはかれのお世話で高等師範学校のなかでもわれわれUTCPのシンポジウムを開催させてもらうことになっている。ありがたい友人である。

しかしかれと話していると、人文系の学問もおそらく根本的にその学問の「態度」と方法を変えなければならないのではないか、という問いも兆してくる。それは、ブエノスアイレス大学でのシンポジウムのテーマでもあるのだが、そのことは考えるとなかなか苦しい。人間について未曾有の「経験/非・経験」を強制してくるこの世紀にあって、Humanityの問いは、どのように問われなければならないのか。この切迫した問いに応えるのは、なによりも若い研究者たちなのだと思いますが……

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