【UTCP Juventus】 宇野瑞木
UTCP若手研究者研究プロフィール紹介の19回目は、RA研究員の宇野瑞木(東アジア 比較文学・思想)が担当します。
東アジアにおけるイメージの継承、およびそれを支えた思想のあり方に関心があります。現在は、古代中国に生まれ、朝鮮半島・日本などの東アジア社会に広く伝播していった孝子説話(とりわけ〈二十四孝〉)という孝思想の具体的な表象を通して、東アジアにおいて重要な意味を持ち続けた孝の意味・機能を明らかにしようとしているところです。
以下に、研究のあらましを述べます。
Ⅰ.二十四孝
私が現在研究している二十四孝とは、孝という徳目をさまざまなタイプの孝行者の事跡によって説いた〈孝子説話のダイジェスト版〉とも言えるものです。しばしば天との感応により孝子が奇跡を起こす場面などが描かれた図像が伴って、広く東アジア社会に伝播していきました。二十四孝自体は、中国の唐代に成立したと考えられますが、すでに紀元後100年頃の後漢の地方豪族の墳墓の前に建てられた祠堂に孝子の物語絵が多数発見されています。その後、墓室・祠堂・棺といった埋葬・儀礼空間、唐代寺院の説教の場(おそらく絵解きがなされていただろう)、さらに写本・版本や屏風などの室内装飾にも描かれていきました。
日本に二十四孝が齎されたのは、南北朝時代(14C) の五山の禅僧による可能性が高いとされていますが、二十四孝の前身である〈孝子伝〉が既に奈良時代に渡来しており、それによって説話受容の下地が準備されたといえます。中世においては、主に貴族や武家の親の追善供養の法会において語られるなど、仏教色が濃いのが特徴的といえます。こうした孝子説話は、親子・兄弟・夫婦(君臣)といった人間関係の中で生じるドラマを描きながら、理想の人間像を示していため、初学者の教科書として利用されるとともに、古典文芸の世界における親子関係を描く際の雛形としても重要な役割を果たしました。
その大衆化が一気に進むのは、出版技術が発達した江戸時代であり、挿絵や版画が大量に作られ、井原西鶴が『本朝廿不孝』という絵入のパロディ小説を刊行し、浄瑠璃・歌舞伎『本朝二十四孝』が上演され、また落語の題材にもなるというような娯楽的展開もみせていきました。
以上のように、二十四孝は孝思想を東アジア社会に広く浸透させるのに重要な役割を果たしたと考えられますが、しかし近代以降は、人々から次第に忘れられていき、現代においては落語や浄瑠璃・歌舞伎を通じて、わずかにその名前が知られるのみとなっています。
Ⅱ.研究の概要
この前近代の東アジア社会において、二十四孝および孝の物語が果たした社会的影響力に着目し、説話を通して孝思想が東アジア社会に浸透していった状況を解明しようとしています。
そのために、以下に述べる二つの方向から研究を行ってきました。
(1)従来の説話文学研究のように、中国での生成および日本への伝播の過程の歴史的把握を文字テクスト中心に追うだけではなく、いまだ研究が手薄な図像資料に着目して跡づけること、(2)同時代の説話を取り巻く外部の文脈との関係を分析し、それによって、その時代・場所に生じた変容の要因と意味を明らかにすること、です。
(1)孝のイメージの研究――孝子伝・二十四孝図の収集とモチーフ整理
これまで、中国の後漢墓の孝子伝図から江戸時代元禄期の二十四孝図までの図像資料を、説話史・美術史・考古学を横断しながら収集し、モチーフと構図の二点にポイントを絞って、描かれたモチーフを抜き出し、モチーフの取捨選択、付加、変容に着目して整理してきました。
具体的には、室町末期から江戸極初期に、日本の二十四孝図の原型が成立したと考え、嵯峨本『二十四孝』と渋川版「二十四孝」の図像を一応の終着点として設定して、両者の特徴的モチーフの源流を、先行する渡来版本の挿絵、および日本の屏風・襖絵・扇面・絵巻・奈良絵本から調査しました。また、その際に、2002年3月に北京の中国国家図書館に赴いて申請者が入手した『全相二十四孝詩選』の後半部分の挿絵という重要な新資料を加えて分析過程を補強しました。
これによって、江戸時代に特に大きな展開をみせる前段階として、南北朝時代以降、中国・朝鮮半島から渡来した二十四孝図および孝子伝図がいかに摂取され、日本の二十四孝図として定着していったかという問題を考察し、日本の二十四孝図の成立過程を全体的に見直しました。(→寺田瑞木、「江戸初期の二十四孝図――嵯峨本『二十四孝』と渋川版『御伽文庫』「二十四孝」における図像の成立関係」、『浮世絵芸術』147号、55頁~71頁、2004年1月)
(2)イメージを支え、生成する場・思想・文脈・説話テクスト
・室町末期の五山周辺の説話解釈と思想
現在は、以上に述べたような日本で生まれた二十四孝図のモティーフや構図の変容の要因を分析しているところです。具体的には、日本の二十四孝図において新たに生じた変容の要因を、①説話解釈による変容、②絵画の様式による変容とに分け、初期狩野派による二十四孝図の中心的受容者であった五山の禅僧たちの当時の思想との影響関係を調査しています。
・中世日本の祖先供養の場
また、中世日本における孝子説話の重要な場であった死者供養の儀礼(法会)における説話の引用のされ方、すなわちレトリックの問題についても取り組んでいます。これについては、声で語られるものであることを考慮すべきであり、常套句の多用と説話の引用の問題は密接に関わっていると考えています。こうした分析を通して、二十四孝の日本中世における消化の様相を明らかにしたいと考えています。
具体的には、日本中世の死者儀礼の場における孝子説話の機能について、法会で語られた文を集成した『金玉要集』(室町中期写)の「孟宗」説話のテクストを中心に、中国渡来の孝子説話が漢文から和文化する過程で、独自の展開を遂げた様相を明らかにしてきました。特に、説話の内容と直接関係ない和歌的表現や小野小町零落の物語等別の日本的な要素が入り込んでおり、その付加要素が前後の法会の詞章における文脈と通じている点を指摘しました。また、聖護院門跡・道澄の母の七回忌に合わせ、二十四孝図屏風や盂蘭盆にまつわる絵が用意され、五山僧と施主による漢詩と和歌の即興での遣り取りがなされた可能性を示し、日本中世における孝子説話が具体的に語られていた場を再現することを試みました。(→宇野瑞木「日本中世における祖先供養の場と孝子説話」『説話文学研究』42号、54~71頁、2007年7月)
・中国唐代寺院での絵解きの場
さらに、二十四孝の生成の場として、中国唐代の仏教寺院における絵解きの場が重要であると考えています。そこで、二十四孝の生成と仏教との関わりの究明を、二十四孝の一人である「郭巨」説話を分析の中心に据えて行いました。「郭巨」説話は、老母を生かすため我が子を地面に埋めようとして、孝心故に天が感応し黄金を掘り出したという内容ですが、テクストの変容過程において、後世になると郭巨の妻の我が子を殺さねばならない悲しみの描写が加わります。この点について、従来の研究では普遍的「母性」とそれに共鳴する享受者の心情に帰着させる傾向がありましたが、唐代民間に盛行した仏教の疑経『父母恩重経』周辺の言説研究から、民間仏教の場に共有されていた母の恩と授乳期間を三年とした言説が直接影響した可能性が高いことを指摘しました。(→宇野瑞木「郭巨説話の母子像――二十四孝と十種恩徳」『中国――社会と文化』22号、106~130頁、2007年6月)
・その他、近世日本における二十四孝の展開についても研究を少しずつ進めている。
(→徳田武・寺田瑞木「手柄岡持自筆『加言二十四孝』翻刻・解題」『明治大学教養論集』404号、41~87頁、2006年3月)