【UTCP Juventus】 中澤栄輔
「記憶の哲学」というのが私の研究のタイトルです.しかし,なぜ「記憶」なのでしょうか.今回のUTCP Juventusでは,私の研究の動機を語りたいと思います.
1 エピソード記憶
過去に経験した楽しいことがらを思い出して甘美な気持ちに包まれることもあるし,それとは反対に,過去の苦い経験が頭をよぎって後悔の念に苛まれることもある.こうした記憶が私の研究対象である.たしかに,ひとくちに記憶といっても記憶にはいろいろな種類がある.なかでも短期記憶/長期記憶という区分や,潜在的記憶/顕在的記憶という区分などは有名だろう.こうしたさまざまな種類の記憶の中で,とりわけ私が注目しているのは「エピソード記憶」と呼ばれる記憶である.エピソード記憶とは特定の時間位置と場所を持ち,過去に自分が経験したことにかんする長期的な記憶である.たとえば,「源頼朝が1192年に鎌倉幕府を開いた」とか「水は100度で沸騰する」という事柄を私はたしかに覚えている.だから一種の記憶である.しかしこれらは実際に私が経験した事柄ではないので,エピソード記憶ではない.こうした記憶は意味記憶といわれる.また,私はたいていの場合,30秒前に私が何をしていたかについて語ることができるが,30時間30秒前に私が何をしていたかについて語ることはほとんどの場合できない.このようにしてすぐに忘れてしまう出来事の記憶は長期的な記憶ではないのでエピソード記憶ではない.これは短期記憶と呼ばれる.エピソード記憶とは,たとえば,20年くらい経ったいまでもすぐに思い出すことができる小学校6年生の夏休みに川で遊んだときに私が目にした一連の情景,というような過去の経験にかんする心的表象である.
(駒場をあちこち歩き回り,季節の写真を撮っています.この写真はUTCPブログのサムネイルとかにたまに使っています.この写真は梅です.凛としています.)
2 エピソード記憶と人格の同一性
なぜ,私はエピソード記憶に注目するのか.それは,私のエピソード記憶が私自身を形作っているのだという漠然とした直観があるためだ.こうした直観は哲学を学び始める前からのものである.小学生時代にまつわるエピソード記憶,中学生時代にまつわるエピソード記憶,そうしたエピソード記憶のひとつひとつが私を構成しているような気がずっとしていたし,私のエピソード記憶がすべてなくなってしまったら,私は私ではなくなってしまうような気がしていた.こうしたいわば哲学以前的直観を哲学的に救ってくれている議論が「人格の同一性」をめぐる議論である.
人格の同一性の基準は何か,という議論は周知のとおりたいそう歴史のある議論で,これまでさまざまな哲学者がこの問題を論じている.大雑把に分けると,身体・脳の連続性を人格の同一性の基準ととらえる「人格の同一性にかんする物理説」が一方にあり,他方に人格の同一性の基準を記憶の連続性にもとめる「人格の同一性にかんする心理説」がある.私の直観に訴えるのはこちらの「心理説」のほうだ.
こうして,わたしの哲学以前的直観は哲学的研究へと自然に移行した.すなわち,「私のエピソード記憶が私自身を形作っていいて,私のエピソード記憶がすべてなくなってしまったら,私は私ではなくなってしまうような気がする」といった直観を最大限擁護しようという私の意図が現在の私の哲学的研究の背景になっている.具体的に言うと,私の研究の目標のひとつは人格の同一性にかんする心理説を擁護しつつ,それに対立するいくつかの視点(物理説など)と心理説を比較し,心理説を再検討することである.何のために人格の同一性にかんする心理説を再検討するのか.それはもちろん,私の哲学以前的直観を擁護したいからにほかならない.
(4月の桜です.背景は1号館です.)
3 思考実験と自然科学的実験
とはいえ,心理説の再検討と言っても,それはいったいどういった方法を採るのか.
これまで,人格の同一性にかんする哲学的議論の方法的な特徴はそれが豊富な思考実験を盛り込んだ議論だったということだと思われる.たとえば,パーフィットはサイエンスフィクションに出てきそうな「人間の遠隔輸送」の思考実験を紹介している.地球上でスキャンされた私の身体にかんするすべての情報が火星に送られ,火星でその情報をもとに私の身体が火星に用意された物質から作られる,もしそうした技術が可能になったら,私の人格の同一性はどうなるだろうか,というものだ.ちなみにこの思考実験にはヴァリエーションがあって,読み取り元の地球の私の身体がスキャンによって破壊される場合と,新型スキャン装置の開発によって読み取り元の地球の私の身体は破壊される存続する場合とに分けられる.いずれにせよ,こうした思考実験は多くの示唆に富み,われわれが人格の同一性の基準とはいったいなんのかということについて考えるきっかけを与えてくれる.
しかしながら,私はこのような思考実験をベースにした哲学的議論の方法に不満を持っている.その不満とは,そうした哲学的議論が扱っている個々の素材にたいする自然科学的な検討がときに不足していることである.人格の同一性にかんする心理説にかぎっていうと,エピソード記憶は人格の同一性の心理説にとってほとんど本質的とも言えるほど重要であるにもかかわらず,エピソード記憶の自然科学的研究を十分に踏まえている哲学的議論はそれほど多くはない.そうした自然科学的研究を十分に踏まえていない議論はどこかしら足腰の弱いものに見えるのみならず,素朴な先入見(本稿の文脈にそくして言うと,エピソード記憶についての素朴な先入見)に基づいて哲学的議論を構築してしまう可能性がある.
こうした状況を鑑みて,私はエピソード記憶にかんする心理学的,脳神経科学的研究の成果を最大限活用するという方法を採用している.すなわち,私は思考実験ではなく,科学的な実験にもとづいて,哲学的議論を構築したいと考えている.
(桜が散ると,八重桜が咲きだしました.14号館脇は八重桜ロードになっています.)
4 エピソード記憶のビデオテープ説批判
具体的に言って,エピソード記憶の心理学や脳神経科学はわれわれの記憶観についてどのようなインパクトを持っているのだろうか.
一例として,以前私が行った研究の中に「エピソード記憶のビデオテープ説批判」というものがある.エピソード記憶とは「感覚器官をとおして獲得されたイメージが,そのまま脳に保存されて,しばらくたってからそれを思い出す」,そういったものだと考えられていた時代があった.こうした記憶観を「エピソード記憶のビデオテープ説」と呼ぶ.ちなみに時代から考えて仕方ないかもしれないが,前期のフッサールなどは典型的にこうしたエピソード記憶にかんするビデオテープ説を採っている.
しかしながら,心理学や脳神経科学の展開によって明らかになってきたわれわれのエピソード記憶の姿は,そのようなビデオテープ的な記憶像とは程遠いものである.心理学の分野では早くから偽記憶の存在とその発生のシステムが研究されてきたし,脳神経科学的に言っても,エピソード記憶のビデオテープ説が要請するような記憶痕跡(脳のどこかにあるエピソード記憶が保存されている場所)の存在は妥当ではない.エピソード記憶とは脳のどこかに保存されていた情報がそのまま想起されるのだと説明するよりも,むしろ,エピソード記憶とは想起するときにニューラルネットワークのそのときの状態に応じてそのつど構成されるのだと説明するほうが,脳神経科学的に妥当である.
(駒場キャンパスには動物もたくさんおります.キジバトはよく見かけます.)
5 おわりに
心理学や脳神経科学の成果をとおして,われわれのエピソード記憶観は(ビデオテープ説を採っている場合は顕著に)改変を迫られるだろう.そうしたエピソード記憶観の改変に応じて,人格の同一性の基準にかんする心理説も再検討を要すると考えられる.ただ,私の研究は人格の同一性の基準にかんする心理説を再検討することだけが目的ではない.人格の同一性にかんして記憶をベースに検討することは,われわれの「生」にとって「過去」がどのようにかかわるのかを考察することである.すなわち,われわれが所有している過去概念の起源とその本質を記憶という観点から明らかにすること,そういったことを今後の研究で達成できたらと考えている.
(5月はツツジがきれいでした.後ろに写っているのは新しくなった正門です.)
(6月はUTCP事務室がある101号館のまわりにアジサイがたくさん咲いていました.)
(イチョウは駒場の名物です.これは去年の12月ごろの並木通りです.)