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【報告】ウィレーン・ムーティ「近代の超克と資本主義の超克」

2008.08.25 中尾麻伊香, 日本思想セミナー

 2008年7月10日のUTCP日本思想セミナーでは、オタワ大学歴史学部准教授ヴィレン・ムーティ氏の講演「近代の超克と資本主義の超克」が行われた。

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 中国思想と日本思想を研究しているムーティ氏は、マルクス主義の見地から「近代の超克」を再検討し、オルタナティブモダニティを模索している。今回の発表では、孫歌のポストコロニアル的、Richard Calichmanのデリダ的、廣松渉のマルクス主義的な「近代の超克」解釈が紹介された後、ルカーチ、ポストーンをもって新しい可能性が示された。

 まず、孫歌によるポストコロニアル的「近代の超克」解釈が概観された。孫歌は、マルクス主義者である廣松を近代主義的であると批判し、竹内好が想像したように東アジアのオルタナティブなモダニティを志向することは極めて困難であるという。孫歌の考えでは、廣松は「イデオロギー批判と思想分析のあいだでいつも揺れ動き、両者を有機的に組み合わせる方法を最後まで見出せなかった」のだ。そして孫歌は「近代の超克」の中の新しい思想形成という可能性に注目した竹内好の議論を発展させようとする。孫歌はポストコロニアルの立場から西洋中心主義を批判、マルクス主義や抽象的思考を否定し、経験や歴史をもってオルタナティブモダニティを模索しようとする。

 次にRichard Calichmanのデリダ的、超越論的解釈がとりあげられた。Calichmanはアイデンティティを常に他者から媒介されるものとしてデリダ的に解釈し、近代/西洋との接触によって穢された東亜の「純粋なアイデンティティ」を強調して他者を拒否しようとした「近代の超克」論者を批判する。また、歴史的な分析だけでアイデンティティの論理をつかんでいないマルクス主義やハルトゥーニアンも不十分だとする。
 そこで、そうしたマルクス主義的解釈の一つとされる廣松渉の議論が検討された。廣松はアイデンティティの問題よりも、資本主義と近代の超克の関係を問題とする。資本主義は右派と左派両方から批判されたが、それは廣松によれば彼らが資本主義をよく理解しなかったからだという。廣松は、国家をもって、または文化から資本主義を超える可能性を示唆している。ところが、廣松の議論は、孫歌からは抽象的であると、Calichmanからは具体的であると、双方から批判された。

 ムーティ氏は以上3者の解釈を示した上で、イデオロギー批判と思想分析を組み合わせる方法としてポストーンとルカーチの議論を用いる。
 モイッシュ・ポストーン(Moishe Postone)は、近代思想の基礎は資本主義にあるとし、マルクス主義における「物象化」の新しい解釈によって資本主義と思想をつなぐ。物象化は廣松にとっては普遍的であるが、ポストーンやルカーチにとっては資本主義的な概念である。ムーティ氏も物象化は資本主義に由来すると考え、近代を超克するためには資本主義の超克をしなければならず、物象化のあらわれである国家から変えることはできないと考える。

 ジェルジュ・ルカーチは近代哲学の主体と客体という対立を超えようとするドイツ観念論を受け継ぎポスト・ヘーゲル的存在論の立場から、歴史的対立を超えようとする。ただしルカーチはヘーゲルの超克は思想的であり、資本主義や物象化といった社会的な基礎を超克することはできないと考える。労働階級が主体かつ客体であるとして彼らの実践に依拠して物象化と資本主義を超えることができるとしたルカーチに対して、ポストーンはルカーチの労働概念はヘーゲルの絶対精神と同様に非歴史的なものだと批判し、本当の主体と客体は資本そのものだと考える。ムーティ氏は、近代の対立を超えるには、このように主体と客体という概念を否定しなければならないと提案する。この視点から近代の超克をどう再解釈するかが重要なのである。

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 以上がムーティ氏の講演の概要である。以下でその後の議論のいくつかを紹介したい。
 中島隆博氏からは、竹内好と廣松渉をどのように解釈するかという問いがだされた。ムーティ氏は両者の違いはマルクス主義に対する態度であると答えた。中島氏は、廣松の解釈をもってすれば近代を超克したら国家という形になったので、マルクスに戻って別の可能性を考えたいと述べた。中島氏からは、東アジアという空間性をどのように考えたらよいのかという問いも出された。
 西山雄二氏からは、近代の枠組みそのものが変容し、資本主義が近代を置き去りにして進んでいく現在における、発表のアクチュアリティが問われた。ムーティ氏は、近代の超克は資本主義の超克と同じであり、資本主義の外に近代は存在しない。問題は本源的蓄積をどのように考えるかということだと答えた。
 小林康夫氏からは、資本主義を超えなければならないのか、という根本に立ち戻った問いがなされた。つまり「超える」ということは資本主義の純粋なふるまいである、と彼はいう。小林氏によれば今の資本主義の中にある異分子は国家である。なぜなら価値の基礎が労働にある資本主義において、国家は労働できない人を守る装置ともなるからである。ここで、デリダのdeconstruction(批評の批評)、超えるのではなく解体することが重要なのではないか、という意見が示された。
 「近代」そして「資本主義」の超克をめぐって、さまざまな立場が示され、それぞれの可能性について考える、濃密なセミナーとなった。

(報告:中尾麻伊香)

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