【UTCP Juventus】 西山雄二
UTCP若手研究者の研究プロフィールをブログで連続掲載することになりました。ひとりひとりが各自の研究テーマ、いままでの仕事、今後の展開などを自由に綴っていきます。初回は特任講師の西山雄二(フランス思想専攻)が担当します。
自分の好奇心の雑多さのために、年を重ねるうちに私の研究分野はいくつかに分岐していきました。その足跡と展望を簡単に記すことで、研究プロフィールとさせていただきます。
1)モーリス・ブランショ研究
私は小説家・文芸批評家モーリス・ブランショ(1907~2003)について研究を積み重ね、その成果を博士論文『異議申し立てとしての文学――モーリス・ブランショにおける孤独、友愛、共同性』(御茶の水書房、2007年)としてまとめました。ブランショは文学の経験に即して非人称性(誰でもない誰か)を探究した作家ですが、彼がこうした非人称的な零度から出発して、「孤独・友愛・共同性」という三幅対の人称世界(私・君・私たち)を文学・思想・政治の諸領域においていかに徹底的に生き抜いたかを本書では論じ、ブランショの生涯を網羅的に解明しました。現在は、ブランショの主著『終わりなき対話』の翻訳チームに参加し作業を進めています。また、クリストフ・ビダンらが主宰するブランショ研究者のアソシエーション「Espace Maurice Blanchot」には、郷原佳以さん(関東学院大学)とともに日本の海外協力者として参与しており、ブランショ研究の国際的な展開に尽力したいと考えています。
2)現代フランスにおけるヘーゲル哲学の受容
フランスにおけるヘーゲル受容に関しては、アレクサンドル・コジェーヴの『精神現象学』講義の影響とその否定まではよく知られているのですが、コジェーヴ以後にどのようなヘーゲル読解が登場しているのかはさほど解明されていません。フランスでは1970年代からヘーゲルの文献学的研究が進み、ヘーゲル解釈の地平が変化しつつあります。私はとくに、デリダのヘーゲル読解の流れを汲む肯定的で生産的なヘーゲル研究に着目し、ジャン=リュック・ナンシー『ヘーゲル――否定的なものの不安』(現代企画室、2003年)、カトリーヌ・マラブー『ヘーゲルの未来――可塑性、時間性、弁証法』(未來社、2005年)を翻訳し、その意義を紹介しました。また、現代フランスにおけるヘーゲル受容の概観については、『ヘーゲル――現代哲学の起点』(社会評論社、2008年)などに拙稿を掲載しました。
3)フランス現代史とその他者
第二次世界大戦中のナチス・ユダヤ人虐殺への加担、泥沼化したアルジェリア独立戦争、68年5月の出来事はフランス現代史の意味や方向性を根底的に規定し、フランス社会の現在をつねに動揺させる震源地であり続けています。アルジェリアとフランスの関係に関して言えば、アルジェリア移民3世代の証言でフランス戦後史を描き直すヤミナ・ベンギギ監督作品『移民の記憶』の字幕を友人たちと担当し、シンポジウムなどを通じて、移民の視点から描くフランス戦後史の重要性を提起しました。また、68年5月とその記憶の継承に関しては、『環』(vol.33、藤原書店)にささやかな拙論を載せました。
(「研究を救おう!」運動:研究予算削減と若手研究者の就職難などをめぐって、研究者数千名が管理ポストの集団辞職を宣言し、世論を巻き込んで政府側と交渉した)
私はフランス留学中、大統領選挙の極右候補者ル・ペン反対デモ(2002年5月)、イラク戦争反対デモ(2003年2月)、「研究を救おう!」運動(2004年1-3月)などに街路で立ち会い、人々の異議申し立ての声を間近で聞きました。それらの運動や連帯は問題を抱えた社会が「健康を創造する」出来事であり、ある種の解放をともなう「歓喜の情動」が強く感じられました。フランス社会がその他者と遭遇することで歴史的に変化する有り様にはこれからも目を向けていきます。
4)哲学、教育、大学をめぐる研究
①哲学、教育、大学をめぐるジャック・デリダの理論と実践
ジャック・デリダはフランスでは伝統的な大学制度の門外漢だったものの、哲学と教育、哲学と大学の関係を実践と理論の両面で真摯に問い続けました。彼は1970年代には、政府による哲学教育の削減に反対してGREPH(哲学教育研究グループ)を結成し、哲学三部会を開催して哲学の現代的可能性を一般市民とともに討議しました。また、1983年には哲学の領域横断的な可能性を引き出すために新たな学府「国際哲学コレージュ」をパリに創設しました。この間、デリダが積み重ねた理論的成果は650頁を越える大部の論集『哲学への権利について』(Galilée, 1990)に収録され、また、晩年には『条件なき大学』(拙訳、月曜社、2008年)でグローバル化時代における大学、とりわけ人文学の未来を問うています。こうした哲学、教育、大学をめぐるジャック・デリダの理論と実践の意義を解明するために、私は現在、脱構築と教育の関係、デリダの教育法の特性、教育をめぐるデリダの社会的活動の意義、国際哲学コレージュの制度的特徴などをめぐって研究を進めています。
②公開共同研究「哲学と大学」
また、こうした個人研究と連動する形で、同輩の若手研究者たちと公開共同研究「哲学と大学」を2007年10月からUTCPの枠で実施してきました。この共同研究の目的は、各哲学者の大学論を批判的に考察することで、教育法や教育論、学問論、教養論、人間論、人文学論といった主題も踏まえつつ、哲学と大学の制度や理念との関係を問い直すことです。これまで、ビル・レディングス、カント、フンボルト、ヘーゲル、デリダ、ウェーバーの大学論について、そして、ヨーロッパにおける高等教育の再編、フランスにおけるエリート教育といった主題について研究会やシンポジウムを開催してきました。その成果はUTCP叢書として未來社より刊行予定です。
③国際フォーラム「哲学と教育」
同じくUTCPプログラムの枠で、私は国際哲学コレージュ(フランス・パリ)において、毎年、国際フォーラム「哲学と教育」を企画し開催してきました(第1回2006年11月8日、第2回2008年1月8日)。この会にはフランス、イギリス、アルゼンチン、日本の研究者が参加し、各国の教育制度・教育思想に照らし合わせながら、哲学と教育をめぐって発表・討議がなされました。その成果は、UTCP Bulltin, Vol, 10 'Philosophie et Éducation', 2007; Philosophie et Éducation Enseigner, apprendre – sur la pédagogie de la philosophie et de la psychanalyse (UTCP Booklet 1, 2008) として公刊されています。また、第3回目のフォーラム"Le droit à la philosophie : la déconstruction des institutions de recherche et d'enseignement à l'époque de la globalisation"(哲学への権利――グローバル化時代における研究教育制度の脱構築)は、2008年11月24-25日に開催予定です。
以上、孤独、友愛、共同性、歴史的出来事、教育、大学などをめぐる私の雑種的な研究活動は、当グローバルCOEが掲げる「共生」概念の追究とどこかで交錯するものです。ただともかく、「共に生きること」の哲学的、倫理的、政治的な光景――「共生」の賢慮と不安――を自分なりに意識しつつ、UTCPの活動に従事していきたいと考えています。(文責:西山雄二)
賢者が私たちに教示する――生きることはつねに「共に生きること(vivre ensemble)」であり、そうしなければならないのだから、「いかにして共に生きなければならないか」をただ学び、規則、規範、格律、戒律を、さらには倫理的、法的、政治的な判例を規定しておこう。
しかし、絶望が抗議し応答する――いかにして、だって? だが、いかにして共に生きるのか? 私は、君は、彼/彼女は、私たちは、あなたたちは、彼ら/彼女らは、共に生きることにけっして到達しはしないだろう。
そして、こうした人称変化は、次のような同じ不安が孕むより深遠な逆説をも物語っている。
「いかにして共に生きるのか」と尋ねるために、誰が誰に語りかけるのだろうか?
いや、「共に生きること」はすでに生じなかっただろうか、この問いの不安が私たちをその孤独のなかで動揺させるあの瞬間から、私たちの絶望を白状させ、そう、宣言させ、この絶望を分かち合うようにさせる、あの瞬間からすでに。
――ジャック・デリダ「白状すること―不可能なものを」